レザー・シャー・パフラヴィの統治ー現代イラン通史の試み、その2ー

The reign of Reza Shah Pahlavi)

   (大分県立芸術文化短期大学研究紀要、第37巻(平成11年)所収、研究ノート)        

                              富田 健次

 レザー・シャーの権力基盤

  1926年4 月25日、レザー・ハーンは自ら王冠を頂いてイラン国王シャーヒンシャー( 諸王の王) に即位し、レザー・シャーと呼ばれることになった。権力を固めた彼の下でイランの社会はサファヴィ朝以来初めて統制が可能となった。彼は前世紀の改革者たちが掲げながら果たせなかった社会・文化・経済の野心的な改革に着手する。E. Abrahamianはレザー・シャーの権力を支えた3 本柱として新規の軍隊、官僚、宮廷を挙げる*1

  イランの歴代の王朝は遊牧部族民の兵力によって王朝を樹立してきた。唯一の例外であるレザー・シャーは近代的な軍事組織を新体制の大黒柱とした。1926年から彼の退位の年1941年までの間に、軍事予算は5 倍以上に増加した。徴兵制はまず村落域に、次に都市部に、最後に遊牧民に適用され、兵力は4 万人から12万7 千人へと増えた*2。

  第二の柱は近代的官僚であった。レザー・シャーはそれまでの財務官( Mostoufi)、世襲王族、大臣といった無秩序な集合体に代えて、内務省、外務省、法務省、大蔵省、文部省、通商省、郵政省、農務省、運輸省、工業省、合計10省の専任公務員として9 万人の官僚を養成した。治安、国内行政、保健、選挙、徴兵を管轄する内務省は抜本的に改組された。従来の地方単位である州(Ayalat) と地方区(Velayat) は廃され、代わって11のオスターン ( 州) 、49のシャフレスターン( 市) 、バフシュ( 区) 、デヘスターン( 村) に分けられた。近来初めて国家の行政が首都から州の市や区さらには大規模農村にまで及ぶことになった。

  第三の柱は宮廷であった。レザー・シャーは小農民の出身であり、1921年のクーデター時点では僅かの俸給を受ける大佐に過ぎなかったが、国王になると蓄財して、イランで最大の資産家になった。彼が退位したとき、300 万英ポンドの銀行預金と300 万エーカー以上の不動産を後継者に残したとされる。これらの不動産は肥沃なマーゼンダラーン地方に集中していたが、露骨な没収や強制的な売却などによって取得したものであった*3。これらの資産は王立のホテルやカジノ、宮殿、企業、慈善団体、財団の設立に使われ、宮廷内の職位、給与、恩給、名ばかりの名誉職を増殖させることになった。こうして実入りの良い地位や将来を保証する場として富裕な地主や軍人の混合体が宮廷を取り巻いた。

  軍部・官僚・宮廷の3 柱でレザー・シャーは政治制度を専制的に統御した。それまでの20年間の国民議会*4は、農村域では名士が郎党の票を纏め、都市部では独自の政治家が政治運動を展開していた。しかし、それ以降の16年間*5は、シャーが選挙の結果を決め国民議会を牛耳った。治安当局の力を借りて議員立候補者のリストをシャーが作り、これを内務大臣に渡した。内務大臣はそれをそのまま州知事に、州知事は内務省が選んだ選挙管理委員会にこれを渡した。国民議会は形骸化しレザー・シャーによる軍人支配のうわべを繕う飾り物となった。シャーが立法を国民議会に求めれば可決され、反対すれば撤回され、関心を示さなければ長丁場の討議がだらだらと続いた。憲法では国民議会を牽制する上院の設置が嘔われていたが、国民議会がシャーの意の通りに動いたため、上院を招集する必要もなければ、憲法を改定する必要もなかった。

  国民議会が御用機関に堕したことでレザー・シャーは閣僚を自由に選ぶことができた。それまでの国王は内閣を組閣する前に行う政治指導者との交渉で悩まされた。しかし、レザー・シャーはまず首相と閣僚を選び、これを国民議会に紹介して形式的な信任を取り付けた。国民議会から不信任を受ける閣僚はなく、レザー・シャーの信任を得ているかぎり閣僚は安泰であった。

  また、彼は独立系の新聞を発禁処分にし、議員の免責権限を剥奪し、政党を解散・改変した*6。とくに共産党は厳しい弾圧を受けた*7。 

社会改革

  揺るぎない権力に頼ってシャーは社会改革に着手した。彼は体系だった近代化構想を提示したわけではなかったが、実施した諸改革は彼が構想したイランの姿を示していた。外国の術策や宗教勢力、統御の難しい遊牧民や少数民族の問題を解決すること、また西洋式の教育制度を作り、女性の解放と社会進出を促進すること、国営工場や通信網、投資銀行、デパートなどが存在する近代的な経済を育成することなどである。要するにイランを西洋風に造り替えることが彼の長期的な目標であり、その手段は世俗化( 脱イスラーム化) 政策、反部族主義、民族主義、教育振興、国家資本主義であった。

  世俗化政策の実施は多面にわたった。スイス留学帰りの法律家ダーヴァルに法務省の抜本的な再編が命じられた。彼は伝統的なイスラーム判事を西洋的教育を受けた近代的な法律家に代え、フランスの民法とイタリアの刑法に手を加えてイランに導入した。法の一部はコーランと矛盾したが、かたや結婚や離婚、子供の保護関連ではイスラーム法を法典化した。またダーヴァルはウラマーから登記代行の権限を奪って世俗の弁護士に与え、市(シャフレスターン) 、州( オスターン) 、中央の最高裁判所など各地方行政単位に沿って裁判所を設置した。また、各訴訟を世俗法廷と宗教法廷のいずれが裁くか決定する権利を国の判事に与えた。一方、レザー・シャーは国民議会からウラマー議員を劇的に減少させ、また、罪人が聖廟に逃避すれば官憲の追求を免れることができた慣習を打破した。犠牲祭の街頭行事やアーシューラーの鞭打ち行事も禁止し、イマーム・ホセインの殉教を追悼する感情劇にも制限を加えた。エスファハーンの主要モスクを外国人旅行者に開放する一方で、イラン国民にはメッカやメディナ、ナジャフやキャルバラといった聖地への巡礼に必要な出国ビザの発給を拒否した。医学校でイスラームのタブーを無視させたのみならず、イスラームで肖像をタブー視するのを無視して町の広場に自分の銅像を建立した。さらには1939年にすべての宗教的基金や土地( ワクフ) を国に没収させた。ウラマーはこうして政治面だけでなく、司法、社会経済面でもその基盤を失った。

  遊牧部族民政策はそれまでの国内平定作戦の延長線上に位置した。主要部族は第一次大戦中にイランで作戦行動したヨーロッパ人将校の部隊から獲得した兵器で武装していた。当初、まだその軍隊が微力であったレザー・シャーは慎重に構えて遊牧部族民同士を対立させる策をとり、やがて自らの軍事力に自信を持つと部族とその領土を漸次、徴兵と課税の対象に組み込んでいった。徴税は遊牧部族民にとって致命的な負担となり、また、徴兵は彼らの人的資源を奪って中央政府への抵抗能力を減退させた。こうしてレザー・シャーは部族民の武装解除をおこないつつ、部族内部の抗争を煽り、土地を接収し、部族長を陥れ、遊牧移動に制限を加え、また、時としてモデル村落への移住を強制した。諸部族の抵抗を打破すると、軍駐屯所を設置して彼らの永続的な帰順を確保し、定住化を促進した。定住した遊牧民は家畜、食糧を失って生活水準を低下させたうえに疾病の蔓延や死亡率の昂進に見舞われ、軍や地方行政官の搾取対象となった*8。

  遊牧民政策は多民族国家を一つの国民・言語・文化・政治権威のもとに統一するという長期的な展望と密接に結びついていた。中央政府が公立学校、国家官僚、世俗法廷、マスコミを拡充するにつれてペルシア語の読み書き能力が高まり、その一方で、少数民族の言語である、アーゼリー語( アーゼルバーイジャーン地方のトルコ語方言) 、アラビア語、アルメニア語の読み書き能力は学校や出版社が閉鎖され低下した。また十分な成果を上げることはできなかったもののイラン・アカデミーはペルシア語から外来語とくにアラビア語とトルコ語を除去する運動をおこなった。

  ほかにも国民議会は伝統的な民族衣装を非合法化して成人男子すべてに洋服着用を義務づけた(1928年 )。例外は登録されたウラマーだけであった。従来のミールザーとか、ハーン、ベグ、シェイフ、サルダールといった尊称の残滓も廃止され、イタリアのファシストの宣伝機関に倣った公衆指導協会を設立し、出版物や放送を介して民衆に国民意識の浸透を図った。

  都市の行政組織も再編されて旧来のマハッレ( 街区) 制度の痕跡であるキャラーンタル( 町の世話役) やキャドホダー( 街区の世話役) は廃止された。

  さらに国名も在ベルリン公使館の勧めでペルシアからイランに変えた(1934年 )*9。イランは「アーリア人の」を意味する近世ペルシア語で、古代の栄光とアーリア人種の故郷を喚起させると言うことがその理由であった。

  女性の地位向上運動はシャーがトルコを訪問した直後に始まった( 1934年)。トルコではケマル・アタチュルクが同様の運動を展開していた。テヘラン大学はじめ教育機関では男女平等に門戸が開かれた。公共の場所、例えば映画館やホテル、カフェでもし男女の差別待遇がなされると罰金が課せられた。伝統的なチャドルは廃止され、1935年以降、政府高官がチャドルを纏った婦人を連れて公式のパーティに出席すれば罷免された。また、下級公務員もパレードでチャドルを着た婦人を伴えば罰金を課せられた。婦人は看護婦や教師、あるいは女工といった新しい職業につくようになり、女性の社会進出は進んだ。しかし、法制面ではなお多くの点で男性が優位に立っていた。例えば男性は4 人の妻を持つことや、一方的に離婚することが認められていた。遺産相続でも男性が優遇されていた。参政権も女性には認められていなかった。

  教育制度の改革も促進され1925年から1941年の間に教育関連の財政支出は12倍になった。1925年には僅か5 万6 千人の小学生がいたに過ぎなかったが、1941年には28万7 千人に増大し、公立小学校は648 校から2336校に増えた。一方この間にイスラーム宗教学院の神学生は5984人から785 人に急減していた*10。 しかし、農村域の人口の9 割りはなお文盲のままであった。

  中高等教育機関の卒業生たちは政府機関に就職して公務員となり、教育制度の拡充と国家官僚の増大は連動した。こうしたインテリ層は近代的な中間層を構成することになる。

  運輸制度の改善も促進された。イラン中心部では英露が相互牽制をしたため、いずれも鉄道建設を行っていなかった。レザー・シャーは自らの権力を固めると速やかにイラン縦断鉄道建設に着手した(1925年 )。1929年までにカスピ海沿岸のバンダル・シャーとサリーの間ならびにペルシア湾岸のバンダル・シャプールとデズフールの間に鉄道が敷かれ、1931年までにバンダル・シャーからテヘラン経由でバンダル・シャプールまで繋がった。さらにマシュハドからテヘラン経由でタブリーズにいたる鉄道が1941年までに完成した。これらの鉄道はドイツ・英国・アメリカなどの外国人技師によって造られたが、外国から借款を受けることなくなし遂げられた。同様に外国人技師は新道路建設も援助した。これらの道路は当初は軍事目的で造られたが、結果として産業の発展を促すことになった。

  産業開発は世界大不況の下で資本財の価格が下落したのを背景に1930年代にはじまった。政府は関税障壁を高めることで国内の工業を保護振興した。政府専売制を敷き、近代的工場には工業省が融資を行い、新たに工場を創ろうとする者には国立銀行を介して低金利のローンを与えた。1925年には僅か20の近代的工場しかなかったが、1941年には346 に増えていた*11。こうした大規模事業所に働く労働者人口は1921年の千人から1941年には5 万人に増えた。

  その他、石油関連労働者3 万1 千人、鉄道労働者9 千人などを追加すると近代的な労働者数は17万人となり、新たな社会階層が出現した。こうした近代的労働者層は労働人口の4 %に過ぎなかったが、大都市に集中していた。大規模工場の75%はテヘランやタブリーズ、エスファハーン、ギーラーン、マーゼンダラーンに造られていた。労働者の第一世代は農村からの移住者であった。産業と国家行政の急激な成長は都市の様相を一変させ、古い居住区( マハッレ) は解体され、新たな工業、商業、官公庁、住宅地が出現した*12。

  1925年から1941年の間に新規軍隊、中央官庁、工場、近代的教育制度などが政府の財政を18倍に拡大させた*13。この拡大した財政の財源は次のようなものであった。まず、石油生産の増大による利権料の増収(100 万英ポンドから約400 万英ポンド)。この利権料の大半は特別勘定として近代兵器と産業機械の購入に当てられた。第二は高い関税率と第一次大戦後の貿易の回復による関税収入であった*14。第三は旧来の徴税にかわって1925年に導入された所得税で1941年までに28000 万リアルに達した。第四は砂糖、お茶、煙草、燃料などの消費物資の政府専売収入で12億リアル/ 年に達した。もっとも、1937年以降、財政は赤字となり政府は通貨供給量を増大させたためにインフレが生じた。

  レザー・シャーは多元的な伝統的社会を近代的な国民国家に変えようとした。近代化はすなわち西欧化であった。彼は権力の基盤を軍部に置いて行政的脆弱性、遊牧民の跋扈、宗教的権威、社会的不均質性などの問題を克服し、文化的統一、政治的整合性、人種的均質性を目指した。また農村部を犠牲にしつつも都市部の開発と女性の解放を試み、外国の支配を排して主権国家の構築を図った。

 社会階層

  レザー・シャーのとった統治政策政策の一つは上流階層を分裂させることであった。彼自身、資産を蓄積し、ガージャール朝の貴族から第三婦人を迎え、王女アシュラフをカヴァーム・アル・ムルク家に嫁がせ、皇太子をエジプト王女と結婚させることで上流階層に仲間入りした。同時に彼は地主層の擁護者となった。農地改革の動きを棚上げにし、地主に代えて耕作農民に税負担を移し、農地登記局を介して、村落の共同資産を地方名士の名義に変えさせた。村落の長キャドホダーも農民の選出ではなく地主が指名することを命じた。また、信頼できる貴族を国民議会や閣僚、外交官の職に付けた。こうして国民議会の地主議員は次第に増加した。

  このようにレザー・シャーは一部の上流階層と協調する一方で、19世紀を通して彼らが占めてきた地方の名士の立場、また立憲革命以降、彼らが果たしてきた国の支配層としての役割を奪った。或る者には名ばかりの価格で土地の売却を強要し、あるいはその権力や資産、その権利や名誉さらには生命すら奪った*15。当初シャーの信頼を得たものの、後にそれを失って命を落とした上流階層も多かった。1923年以来、レザー・シャーを一貫して支持し宮内相を勤めた若く進歩的な地主ティムールターシュは収賄の咎で1933年突如として投獄され、5 カ月後、心臓発作ということで亡くなった。

  レザー・シャーは上記のように旧来の上流階層の一部と協調関係を持ったが、伝統的中間層からの支持を得ることは出来なかった。国営企業の設立や専売制は数少ない輸出入者や宮廷と繋がった者の懐を潤したが、手工業者は所得税や消費税、近代織物工場の台頭によって打撃を受けて衰退し、旧来の商業界に不満が拡がった。また、レザー・シャーは216 種のギルドに対する課税を廃止した。これはギルド・メンバーの税負担配分権をギルドの長から奪い、バーザール組織を弱体化させる狙いを持っていた。また、彼らのイデオロギー面の指導者であるウラマーもチャドルの廃止や司法制度の解体など一連の世俗化政策に深い恨みを抱いた。

  これら中間層の不満は1926ー27年及び1935ー36年に表面化した。1926ー27年の抗議運動はダーヴァルの世俗法施行と都市部の徴兵を契機にしていた。テヘランのウラマーはコムに退避し、テヘラン、コム、ガズヴィーン、エスファハーン、シーラーズ、ケルマーンのギルドがストを行った。政府は都市の徴兵を止めること、司法委員にウラマーを加えることを約束したが、数年後には反故にされた。1935ー36年の蜂起はチャドルの廃止とつばつき帽子の導入が契機となった。この時マシュハドのイマーム・レザー廟で消費税や支配層の腐敗を非難する説教が行われ、翌日モスクにバーザールや近隣の村から群衆が集まりシャーに対する抗議の声を挙げた。治安当局やホラーサーン駐屯軍はイマーム廟の聖域に踏み込むことを拒否したが、三日後にアーゼルバーイジャーンから急派された援軍が聖廟の制圧を行った。100 名以上が死亡し、発砲を拒否した兵士は銃殺された。

  伝統的な中間層がレザー・シャーへの反感を募らせたのにたいして、近代的な中間層の立場は複雑であった。若い世代のインテリはレザー・シャーに反感を抱いた。年配のインテリ層は当初レザー・シャーjを熱烈に支持したものの、やがて幻滅し離れていった。彼ら年配のインテリ層は諸部族の平定や世俗化、中央集権化を支持した。しかし、シャーが英国との石油協定の改定に失敗したことや王室の蓄財への執心ぶり、莫大な軍事支出とインフレ、全政党解散などに幻滅して1930年代初めには熱を冷ました*16。

  一方、若い世代のインテリはレザー・シャー以前の混乱と絶望的な時代の記憶を持っていなかったため、レザー・シャーに対する反感は強く、国の内外でとくに学生が反シャー活動をおこなった*17。

  レザー・シャーは国民統一の為に非イスラーム少数宗派に対しても他の市民と対等に臨んだ。それまで非イスラーム教徒はイスラーム法のもとで庇護された者( ジンミー) として制度的差別と集団的暴行の対象となっていた。差別から解放された彼らは安全を保障され、経済活動の機会を得ることになった。しかし、その反面、彼らが国民形成や国民統一を阻害する動きをとれば厳しく抑えこまれた。バハーイ教徒の学校は1934年に免許を剥奪された。ユダヤ教徒の国民議会議員は1931年処刑された。ゾロアスター教徒の議員は1940年、路上で警官に射殺された。アルメニア人の学校は1938年免許を剥奪された。同様にアーゼリーやクルド、アラブ族、バルーチ族など、少数民族の言語による出版と教育も禁止された。

  対外政策

  当初、レザー・シャーはガージャール朝の外交官に対外政策を頼っていたが、間もなく外務省を自分の統制下に置いた。彼の外交政策の基本は先行した立憲主義者と同様に英国・ソ連との関係を良好に保つこと、国際問題では中立の立場をとり、英ソを牽制するため第三勢力に接近すると言うものであった。しかし、必ずしも一貫性はなく、短期的で状況に応じて変化した。

  まず、優先すべきことは英ソ二大勢力への依存度を減らすことと、彼らの国内での影響力を減じることであった。英ソが彼の支配体制の安定を脅かさないようにこの二大勢力の間で均衡をとり、両勢力を相互牽制することで彼はこの目標を追求した*18。

 また、彼はソ連や英国の影響力を排して近代化を推進すべく他のヨーロッパ諸国やトルコを参考にしつつ、カピチュレーションの廃止に向けて伝統的なイスラーム法制度を制限し、西欧の法典を導入した。

  西欧列強は伝統的国際法あるいはヨーロッパ公法のもとで、ヨーロッパ型の法制度を持つ文明国だけを法主体と認め、ペルシアの他、トルコ、中国、日本には領事裁判制度を軸とする不平等条約を押しつけ、これらの国を半人前の国際法主体とみなしていた。従って不平等条約を撤廃するには文明国の条件であるヨーロッパ型の法体制と司法制度の整備が必要であった*19。

  1828年のトルコマーンチャーイ条約の後、ロシアに倣って他の西洋諸国も次々と関税と人頭税、通行税の免除を受けていた。これに抵抗したイラン側は1851年イランと通商協定を結んでいないすべての国の民はペルシア人商人と同じ税金を払うよう要求したが効果は無かった。多くの欧米諸国はイランとカピチュレーションの条項を含むか、あるいは最恵国待遇の条項を含む協定を結んでいた。英国は1841年に最恵国待遇の条項を含む協定を締結した。スペインも1842年最恵国待遇の条項を含む通商協定を締結した*20。

  イランのカピチュレーションはオスマン・トルコのそれに比べれば負担の軽いものであったが、それでも主権の軽視、交易における外国人の優遇、人、家宅、資産に対する不可侵性、またペルシア臣民も外国の庇護を受ければイランの法の適用外に逃れえるなどの問題を抱えていた。

  19世紀の間ならびに20世紀の初めにかけてイラン政府と外国の代理の間でこれを巡り軋轢が続いていたが、第一次大戦後、トルコが一方的にカピチュレーションを破棄( 1914年) したことでイランでも検討がなされ、1918年一方的にカピチュレーションの破棄を宣言したが、この時は単なる意思の表明以外の何者でもなかった。

  大きな転機となったのはロシア革命であった。1919年6 月26日、ソ連との間でロシアの領事裁判権の破棄に関する覚書が交換され、続いて1921年2 月26日、ソ連との間で協定が締結された。その第一項では帝政ロシアとイランの間で締結されたすべての協定の破棄が宣言された。また、第16条では1919年6 月の領事裁判権の破棄に関する先の覚書が再確認され、両国民はそれぞれ当地の裁判権に服することが嘔われた。

  一方、レザー・ハーンは法体制の西欧化すなわち近代化政策に着手した。民法は1925年に3 部に分かれて公布され、刑法は1926年に公布された。翌1927年、すべての裁判所を解体して司法制度を再編するとともに、カピチュレーション廃止の意向を表明し、翌年の1928年、イラン外務省がカピチュレーションを含む協定を無効にする発表を行った(5 月10日)。

  レザー・シャーはこのほか、米国人の財務長官ミルスポーを罷免して財政面の権限を自らに集中させ、新たに設立したイラン国立銀行( Bank-e Melli Iran ) に英国の帝国銀行の造幣権を移管させた。また、電信制度の運営権をインド・ヨーロッパ電信会社から取得したほか、19世紀末(1898年 )より税関を運営してきたベルギー人官吏に代えてイラン人を税関長に任命した( 1934年5 月13日) 。ベルギー人の税関吏はイランが帝政ロシアから借款を受ける時に抵当となるイランの関税収入の確保に当たっていた。また、関税率の自主的決定権は1928年5 月1 日、カピチュレーションの廃止で取り戻していた。さらにレザー・シャーは外国人とくに宗教団体の学校運営と土地所有を禁じ、国内旅行も警察の許可なくして行うことを禁じた。

  しかし、英国は依然としてイランの石油産業を支配しており、イランの経済のみならず政策にも大きな影響力を及ぼしていた。英国人ダーシーに与えた石油利権はイランに不利であり、英国に石油産業を独占させているがイランに利益らしい利益を殆どもたらしていないという不満がテヘランで募った。

  イランで採掘した石油の販売量はアングロ・イラニアン石油会社が決定し、その利益の殆どは英国の株主や英国政府にわたっていた。イラン政府は僅かな利権料を受け取るだけで、企業の経理内容も知らされていなかった。さらにこの英企業はイランの油田地帯と精油所であたかも自国の領土かのように操業し、その従業員は任務遂行上、必要な最小限のことしかイランに関して知識を持たず、また、管理職はヨーロッパ人が、中間職はインド人が独占し、イラン人は最下位の未熟練工職しか与えられていなかった。

  レザー・シャーはソヴィエトの応援を背景に英国に石油利権の再交渉を求めた。しかし、当時の不況のため、アングロ・ペルシアン石油会社は逆に際立って低い利権料をイラン政府に払った( 1931〜32年)。これに対抗してレザー・シャーは1932年11月、利権をキャンセルしたものの、結局、在外イラン資産の没収を避けるため協定の再締結を余儀なくされ、英国との間で新規の利権協定に調印した( 1933年4 月29日)*21。この新協定で、イランは最小限度の年収入を保証され、また石油会社は監督ならびに技術畑でイラン人雇用者を増やすことが決められた。しかし、実際には変化は無く、英国はイラン石油の生産から積み出しまで独占しただけでなく、イラン側には一方的に協定をキャンセルすることが認められず、加えて利権期限を32年延長することになった( 1961年から1993年に) 。この1933年の協定は次の20年間イランと英国の間でくすぶりつづけることになる。

  イランは早くから国際連盟に加盟し、1928年に米国国務長官ケロッグが提唱した不戦条約に調印するなど、総じて紛争の平和的解決を支持した。また列強からの圧力に抵抗しうる小ブロックを作るべく、隣接国トルコ・イラク・アフガーニスターンとの関係強化に努めて未確定国境に関する一連の協定に調印し、不可侵、協調を旨とするサアダーバード条約を締結した(1937年)。

  同時にレザー・シャーは英国・ソ連に対する第三国として、米国への接近を図り、もって英ソを牽制しようとした。1922年に彼はイラン財政の建て直しのために米国人A.C.ミルスポーを招聘( 1922〜27年) し、これを契機に米国との密接な関係を構築しようとした。しかし、おりしも米国は第一次大戦後にとった孤立政策の時期にあたっていた。米国には英国の影響下にある地域に進出して英国と摩擦を引き起こす気持ちは持っていなかった。レザー・シャーは米国石油会社をイラン石油産業に進出させ、米国との間で通商航海条約を締結しようと考えていた。しかし、この動きを察したソ連は米国企業に与える石油利権と同じ利権をイランに要求した。結局、イランは米国との間で限定的な外交と通商の関係を持つ以上のことはできなかった。

  米国に替わってレザー・シャーが第三国として接近することになったのはドイツであった。ナチス・ドイツの台頭は他のアジアや中東の民族主義者と同様、レザー・シャーにも関心を抱かせた。ヒットラーは英国の立場を弱めるため、トルコ、アフガーニスターンと共にイランに対しても寛大な経済・技術支援を行った。こうしてイランとドイツとの友好関係が深まり、1930年代終わりまでには凡そ600 人のドイツ人専門家が工・商業・教育の諸分野で起用され、またイランの貿易の41%をドイツが占めるに至った。ドイツのユンカー社は直行空路とイラン国内空路の権利を取得し、海上でもハンブルグとペルシア湾を結ぶ航路が開設された。

  1939年9 月1 日、ドイツがポーランドに進撃して第2次世界大戦の幕が切って落とされた。英国はイランにおける石油利権がドイツによって脅かされるのではないかと危惧感を抱いた。ソ連はドイツと不可侵条約を締結していた( 1939年8 月23日)が、ドイツはこれを無視してソ連に開戦し進撃した( 1941年6 月22日)。

 これを契機に状況は一転しソ連は英国と同盟関係に入った( 7 月12日) 。この同盟関係はイランにとって重要な意味を持っていた。イランがそれまでソ連と英国の圧力に抗して独立を維持しえたのは両勢力が互いにライバル関係にあり、イランが一方に抵抗するとき他方がイランを支援したことに依っていた。この国際情勢の急変はイランにとって予想外のことであり、結局レザー・シャーの失墜をもたらすことになる。

  ドイツの進撃を受けたソ連は英国・米国からの軍事補給を緊急に必要とした。連合軍はイラン縦断鉄道を利用してソ連に軍事補給を行おうとしたが、レザー・シャーは中立を主張して、これを拒否した。英国とソ連の軍は1941年8 月25日、イランに進駐し、イラン軍は英軍機やソ連機の機銃掃射をうけると抵抗らしい抵抗もせずに潰走した*22。

  レザー・シャーの末期には力による支配がますます強まり、国民の反感が募るなかでクーデターか革命が懸念される状態となっていた。英国はこの状況を利用してレザー・シャーに対する国民の反感を煽り、もって自分の立場を正当化し支持を得ようとした。レザー・シャーは連合軍と協議することなく21歳の皇太子モハンマド・レザー・シャーに位を譲って退位した( 1941年9 月16日) 。極東かラテン・アメリカに亡命が許されるのを期待して家族とともに彼はバンダル・アッバース港から英艦に乗船した。意に反してモーリシャス島に連れていかれた彼はここで健康を害して南アフリカ共和国のトランスバールに移されたあと1944年に亡くなった。

参考文献

 本稿は別の目的で一般向けに1995年執筆したものであるが、予定が変更されたために紀要に掲載するものである。註は本来予定されていなかったため、出処を逐一明記していない箇所があるが、依拠した主たる参考文献はPeter Avery, Gavin Hambly and Charles Melville,The Cambridge History of Iran, Vol.7 ,Cambridge:Cambridge University Press,1991,および E. Abrahamian,Iran Between Two Revolutions, Princeton & New Jersey: Princeton University Press, 1982, である。

*1 1921年12月15日批准。ソ連崩壊後、イランはこの協定の破棄無効を宣言したが、ロシア側は回答せず。法的にはソ連の崩壊は協定に影響を与えないと見られている。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,pp20-21

*2 政権発足にあたり、セイエド・ジヤーとレザー・ハーンは国内の分裂を収拾し国家再生の時代を開くと表明し、社会変革と外国支配からの救済を錦のみ旗に掲げた。

*3  タブリーズではジャーンダールメリーの地方司令官であり、かつバクーにおける共産主義者の東方人民会議に参加した経歴を持つラーフーティ少佐がヒヤーバーニーの残党とともに彼の部隊を糾合して中央政府に反旗を翻していた。レザー・ハーンは軍備の優れたコサック旅団によってこれを掃討しラーフーティ少佐はソヴィエトへの逃亡を余儀なくされた( 後に彼はペルシア・タージク革命詩人としてかの地で名を残すことになった)。

  マシュハドではモハンマド・タギーハーン・ペスヤーンというタブリーズ出身の地方ジャーンダールメリーの司令官がアーゼリー( アーゼルバーイジャーン人) を中心にした民主( デモクラーツ)党とともに革命委員を設立しホラーサーン暫定政府をつくっていた。彼はアスタラーバード( 後のゴルガーン) のクルドとの闘いで戦死し、コサック旅団がその拠点マシュハドを占領した。続いて1921年12月までにレザー・ハーンはソヴィエトの後ろ楯を失ったギーラーンのジャンギャリー運動を鎮圧した。

*4 第4期国会によって戸籍制度が検討され、1922年に最初の国勢調査が行われた。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,pp21ー22

*5 第5期国民議会は1923年3月18日、共和制移行議案を提出し討議を開始した。議会の外でウラマー達は反共和制デモを指揮した。レザー・ハーンはコムに出かけて宗教界の指導者と会い、共和制はイスラームに反するとの結論に達したとの声明を出した。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,p-25

*6 1923年7月4日、英国はイラクから親英議会設立に反対の教令をだしたウラマーをイランに追放した。レザー・ハーンは彼らから信仰の守護者として見られ、また演じた。ウラマーは30人以上であったが、その代表はHaj.Sayyid Abolhasan Isfahani,Haj.Mirza Hossein Na'ini,Haj.Sheikh Karim Yazdi.。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,p-23

*7 小規模ながら空軍と100 輌の戦車を有する機甲部隊、ペルシア湾上に数隻の砲艦を配備した。さらに彼は軍の上層部を体系的に支配体制に組み込んだ。レザー・シャー自身も公式の場で常に軍服を着用し、職業軍人には他の給与所得者よりも上位の生活水準を保証した。国有地を格安の価格で分け与え、テヘランには豪奢な将校クラブをつくり、士官学校の優秀な学生にはフランスに留学させた。かつてのコサック旅団からは忠誠心の厚い旧知を新規軍隊の旅団の長に抜擢し、宮廷内の軍務室から参謀を介し前線の指揮官に至る指揮系統を確立した。また、王子ーとくに皇太子モハンマド・レザーにも第一線の将校としての訓練をほどこした。皇太子はスイス留学の短期間以外は軍事機関のなかで教育を受け、1940年には軍部特別査察官に任用された。

*8 英国公使館の報告するところでは、レザー・シャーは飽くなき財産欲に駆られ、国家への反逆とか天然資源の軽視という咎で地主たちの土地や村落を収用し、また灌漑水路を変えて多くの農民を窮乏化させたとされる。

*9 すなわち第一期から第五期までの国民議会

*10 第六期から第十三期までの国民議会 

*11 改革者党は解散させられ、レザー・シャーを支持した再生党すら新イラン党に変えられ、後にムッソリーニのファシスト党やケマル・アタチュルクの共和党にならった進歩党にとって代えられたが、これも危険な共和制指向をもっているとの嫌疑で非合法とされた。同様に社会主義者党も解散させられた。

*12 共産党は1927年初めの会合で1921年のレザー・ハーンのクーデターを英国の策謀であると論じ、彼を帝国主義の傀儡と非難して農民・労働者・民族資本家による革命を呼びかけた。これに対して政府は労働組合すべてを解散させ、主だったメンバーを逮捕、流刑、投獄した。投獄を免れた共産党指導者はソヴィエトに亡命した者だけであったが、皮肉なことに彼らもスターリンの粛清の嵐の中で姿を消した。

*13   彼の遊牧部族民政策の典型はバフティヤーリー族対策とカシュガーイ族対策であった。1924年から27年にかけての間、アラブ族やロル族、バルーチ族やカシュガーイ族を平定する為に中央政府はバフティヤーリー族の助けを必要としていた。このため政府はバフティヤーリー族のハーン( 族長) : サルダール・アスッアドに軍事大臣とホラーサーン州の知事職を与えた。しかし、バフティヤーリー族の支援がひとたび不要になるとシャーは1927年から1929年、バフティヤーリー部族内部のハフト・ラング族とチャハール・ラング族の抗争を煽った。まずハフト・ラング族への税を重くし、その遊牧地を登録した。その結果ハフト・ラング族は反乱を起こす(1929 )が、部族内ライバルのチャハール・ラング族はなお中央政府を支持していた。レザー・シャーはハフト・ラング族を武装解除し、その一部を定着化させた。族長の領地は地方商人に売却し、サルダール・アスッアド初め主だった16人を投獄した。バフティヤーリー族が英国から受け取っていた石油利権料( アングロ・イラニアン石油会社が支払っていた土地賃貸料) も奪った。チャハール・ラングが次に武装解除と軍政支配の対象となった。遊牧部族民の族長の官職であるイール・ハーンとイール・ベグは1931年に廃止され、加えて1936年バフティヤーリー族の領地はクーゼスターン州とエスファハーン州の間で分割された。サルダール・アスッアドは逮捕されたあと程なく謎の死を遂げた。

  カシュガーイ族は中央政府に毅然たる反抗姿勢をとったため、より厳しい弾圧を受けた。カシュガーイ族の族長( イール・ハーン) ソーラトッドゥレとその長子ナシール・ハーンは最初、国民議会の議員として( 1926) 、後には事実上の捕虜としてテヘランに監禁された、この間に部族民の武装解除と弾圧が始まった。過酷な徴税と徴兵ならびに中央から派遣された官吏の横暴な振る舞いに反発してカシュガーイ族はついに蜂起した(1929年春)。ボイル・アフマディ族、ママッサニー族、ハムセ族がこれに加担した。武装解除と徴兵の中止、減税、自治の復活、族長たちの復権が彼らの掲げた要求であった。

  カシュガーイ族は瞬く間にジャーンダールメリーの駐屯所を抑え、シーラーズ郊外の空港まで進撃し、ブーシェフル・シーラーズ間の街道とシーラーズ・アーバーデ間の街道を寸断した。都市部とくにエスファハーンの不満ウラマーがこれに呼応して都市部にまで反乱が拡大するのを恐れた中央政府は宥和策をとって時間稼ぎをした。ソーラトッドゥレと息子ナシール・ハーンが調停のためにカシュガーイ族に戻された。

  時間稼ぎの間に情勢は政府側に有利になった。道路網の建設と自動火器、装甲車、偵察機といった近代兵器に遊牧民の機動力は太刀打ちできなかった。カシュガーイ族は1929年8 月までに鎮圧され、その後はハムセ族とバハールルー族の討伐が続き、翌年にはママッサニー族とボイル・アフマディ族が平定された。数年後(1932年)にこの時( 1929)の合意が無視されたことに怒ったカシュガーイ族が再び蜂起したが、もはや往時の力無くたちまちの内に弾圧された。

*14 地名も多く変更された。アラベスターンはクーゼスターンに、エンゼリーはパフレヴィに、ルリスターンはケルマーンシャーに、クルデスターンは西アーゼルバーイジャーンに、オルーミーイェはレザーイエに、アスタラーバードはゴルガーンに、ソルターネはアラクに、ムハンマラはホラムシャフルへと名が変わった。

*15 高等教育でも1925年には600 人以下の学生が医科、農業、教育、法、文学、政治の6 つの高等世俗教育機関で学んでいたに過ぎなかった。これらの6 つが併合されてテヘラン大学がつくられ(1934 )、1930年代後半にはさらに5 つの学科が追加された。1941年にはこの11の学部に3300人以上の学生がいた。留学生の数も増大し1940年までに留学帰りが500 人、留学中が450 人いた。

*16 その内200 は自動車修理場、サイロ、蒸留所、皮なめし工場など小規模事業所であった。残りの146 は大規模事業所で37の織物紡績、8 つの製糖、11のマッチ製造、8 の化学、2 のガラス、5 つの製茶、1 の煙草工場などであった。

*17 テヘランの人口は1922年時、20万人弱であったのが1941年には70万人となり、伝統的なバーザール地区、その北の行政地区、さらに北の近代的中間層地区、南西の産業地区、南東の貧民窟の5 つの地区が形成された。

*18 24500 万リアル→43億リアル 

*19 9100万リアルから42100 万リアルに増えた

*20 セパーフダールは税金監査で脅され自殺した。シェイフ・ハズアルやカシュガーイ族のイール・ハーンは自宅監禁中に謎の死を遂げた。遊牧民の族長達は或いは処刑され、或いは長く服役した。

*21 また、1937年までに初期の改革主義者の多くは姿を消していた。ダーヴァルは自殺した。

  近代主義者のキャスラヴィはレザー・シャーが退位したあとその複雑な心境を記した。中央集権化、部族の平定、ウラマーに対する規制の強化、チャドルの廃止、貴族称号の廃止、徴兵制の導入、封建的貴族の排除、大衆の統合、近代的学校や都市、産業の設立を高く評価した。しかし、憲法の蹂躪、文民ではなく軍人による支配、個人的富の集積、他人の資産を盗み、進歩的インテリを殺害し、持てるものと持てざる者の差を拡大したことを非難していた。

*22 その結果1937年には53人が逮捕された。この53人の中心人物はタギー・アラニー教授であった。彼はほどなく亡くなるが、後にこのグループがツーデ党( イラン共産党) の核を形成することになった。

*23 英国よりソ連が脅威であると見ていたが、彼がまず行ったことは1921年のソヴィエト・イラン友好協定の署名であり、また、一般大衆の世論に応えて、英国・イラン協定( 1919年) を国民議会にに拒絶させることであった( 1922)。続いて、彼は両勢力との友好関係を維持しながら、ソ連の息のかかったクーチェク・ハーンや英国の影響下にあったシェイフ・ハズアルを平定して中央集権化を図った。

*24同様の特典はフランス(1855 年) 、米国( 1856年) 、スウェーデン( 1857年) 、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、オーストリア・ハンガリーが取得し、イタリア(1862 年) 、ドイツとスイス( 1873年) 、メキシコとアルゼンチン( 1902年) 、ウルグアイとブラジル( 1903年) と続いた。

*25 1901年の協定の条件をめぐる争いで1920年にArmitage-Smith協定が締結されたが、当時イランは内政的に不安定な時期にあったため、議会の批准を得られなかったBahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Press of Florida, Gainesville,1996,p-

34。1933年の協定で石油会社側は40万平方マイル の土地を放棄すること、イラン人の運営責任者を教育・訓練すること、またイランの年間利益取得率を16%から20%に増加させることとなった。

*26 ソ連は1921年の協定を盾に取った。New times (Moscow) Sep.1995,p−45

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