凍結されたイラン民族主義と冷戦
   -現代イラン通史の試み-  その3

 (Iranian Nationalism Frozen by The Cold War)

              (大分県立芸術文化短期大学研究紀要、第38巻(平成12年)所収、研究ノート)                        

                                富田 健次

英ソ占領下のイラン

  英国・ソ連の両国はかつての勢力圏に沿ってイランを分割占領した。ソ連は北部を占領し、英国は南部を占領した。中央部はイラン政府が両国の指示と要望に応えることを条件にイラン政府のもとに委ねられていた。政治体験も浅く、父が持っていた権威や権力も持っていなかった僅か22歳の第二代国王モハンマド・レザー・シャーは行政・治安機関を管理運営出来ず、代わって占領軍がイランの内外問題を取り仕切った注1。 

  レザー・シャーがつくった独裁的な中央集権体制は瓦解し、地方に派遣されていた将校はテヘランに戻り、徴兵されていた兵士たちは村に逃げ帰った。テヘランで監視下に置かれていた遊牧民の部族長たちも故郷の部族民の下に帰った。強制的に引退させられていた政治家たち、また、神学校( マドラサ) に閉じこもっていたウラマー達も活動を再開した。ガージャール朝末期の厳かった時代を知らない若きインテリたちは、新イランの建設を旗印に掲げて政党を結成し、新聞や冊子を発行し始めた。こうして数多くの社会・政治集団が台頭し、さらに遊牧諸部族がこれに加わって、自由・改革・自治など、諸々の要求を掲げた。或る者は王制を維持したままで民衆参加による漸進的な民主主義化を求め、別の者は共和制移行の革命的な社会主義的変革を求めた。国王(シャー)は保守勢力の支持を受けて、かつての支配の柱であった軍部と治安組織を抑え、占領軍の撤兵を働きかけようとした。一方、レザー・シャーの独裁に反感を抱いていたインテリ、政治家、官僚、ウラマー達は屈辱的な英ソ占領という状況のもとで民族主義的色彩を強めた。国民議会も、民族主義的潮流によって牛耳られ、レザー・シャーの独裁20年間の沈黙から脱して政治討論の場として浮上した注2。

  国民議会は英・ソ連軍による占領という形の外国支配に反対して、法が支配する、より民主的な政治体制を要求しはじめた。ここに国王(シャー)と国民議会、つまり行政府と立法府とのあいだで軋轢が生じ、両者の相互不信のため占領軍に対しては一致団結することはできなかった。英国フチャーチル首相はペルシア人をして相食ませよと述べたが、占領軍はイラン内部の分裂状況を利用して国民の抵抗運動を阻止し、自らの目的に沿ってイランを利用しようとした。

  最初、英国とソ連はイランの占領は一時的であると表明した。また、イランの要求に応えて両国は「英・ソ・イラン軍事同盟協定」を締結した( 1942年1 月29日)。この協定では英ソがイランの主権と領土保全を尊重すること、また、戦争終結から6 カ月以内に撤兵すること、加えて、戦争に起因する損失や困窮に対してイラン国民の経済生活を保証することが約束されていた。これは1943年12月1 日に行われた英・米・ソ首脳のテヘラン会談でも再確認された。

  しかし、英国・ソ連両国はひとたびイラン占領を果たすと、かつてのイランに対する態度を復活する姿勢を見せた。当初の英国・ソ連の関心はナチス・ドイツに包囲されたソ連に対して緊急の軍事補給を米国の技術支援のもとで行うことにあった。しかし、やがてソ連はイランの占領地区を封鎖し、そのソヴィエト化を開始した。クルド人やアーゼルバーイジャーニー人の分布域はイラン・ソ連両国にまたがっている。ソ連はイラン国内のクルド人やアーゼルバーイジャーニー人と手を結び、かれらの自治権獲得闘争を支援した。また、ソ連はレザー・シャーによって非合法化(1937年)されたイラン共産党を新しい名称ツゥーデのもとで再生させ、イデオロギー活動をおこなわせた注3。こうしてアーゼルバーイジャーンで自治政権が創られた。このため、テヘランの中央政府は1944〜45年にかけてアーゼルバーイジャーンに知事を任命することもできなかった。

  英国はドイツがイラン内に浸透することを懸念したが、同時にソ連の動きにも疑念を抱き自らの勢力圏を固めようとした。分割して統治するという政策にのっとり、国王に率いられる保守勢力と遊牧部族民を支援し、もって変革を求める反英・親ソの分子に対抗させた。こうして英国は親英派の元首相セイエド・ジヤーを党首とする親西欧政党エラーデイェ・メッリー党( 国民の意思党) を創らせた。

  互いに相手を出し抜こうとして競い合う英・ソ二国にとって、イランの主権と領土保全を保証した約束はもはや顧みるに値しなかった。英国とソ連は対ドイツ戦のレベルでは協調政策を採りながら、他方、地域レベルでは冷戦下にあった。

  一方、米国も、イランに無関心ではなかった。確かに米国は1940年までイランに殆ど関心を払わずレザー・シャーの期待を袖にした。しかし、1940年代の初め、第二次大戦に巻き込まれ、米国が自国の国際的な立場を再認識すると、イランが持つ経済的・戦略的な重要性に気付いた注4。米国はイランに対して次第に好意的姿勢を強め、イランでソ連の動きに対抗する英国を公式に支持し、在イランの公使館を大使館に格上げした( 1944年)。

  イランの石油に関心を抱いていた米国石油会社はこの状況に乗じて、英国やソ連を出し抜く形で1944年前半にイラン政府と石油利権について交渉を持った注5。英国はこれに不快感を抱き、一方、ソ連は米国に対抗して占領下の北部5 州( アーゼルバーイジャーンからホラーサーン) の石油利権をイランに要求した。

  イラン政府はこの利権交渉を戦争終結まで延期するとして、いずれの国に対しても石油利権の譲渡を拒否したが、これは当時の国民議会の雰囲気を反映したものでもあった。国民議会は政府が外国企業や外国人と石油利権で交渉すること、協定を締結することのいずれも禁じる法を成立させた。この法案を推進した中心的人物は国民議会で民族主義者の先鋒として頭角を顕してきたモハンマド・モサッデグ博士であった。しかし、ソ連はイラン政府が米国や英国と共謀したと疑い、不快感を表明した。冷戦の端緒は第二次世界大戦終結前にイランにおいて始まっていた。

  アーゼルバーイジャーン危機

  前述したようにイランを占領した連合軍は終戦後6 カ月以内に軍を引き上げることになっていた( 1942年1 月29日調印の英・ソ・イラン軍事同盟協定) 。第二次大戦終結直後の1945年9 月に連合軍外相会議で合意した撤兵期日は1946年3 月2 日であった。英国部隊は早々と、1946年1 月までにイランから引き上げた。しかし、ソ連は撤兵期日を明示せず、逆に駐留軍を増強し、その占領下で二つの自治政権をイラン北西部に擁すると共に、イラン政府に対して石油利権を要求した。

  ソ連が擁した自治政権二つのうち、一つはアーゼルバーイジャーン自治共和国( 1945年末) であった。その指導者はジャアファル・ピーシャヴァリーであった注6。1945年9 月初め、国民議会の議員資格の承認取り付けに失敗した彼は、アーゼルバーイジャーン地方の中心都市タブリーズに戻り、旧共産党員やヒヤーバーニー蜂起( 1919ー20年)の残党と共にアーゼルバーイジャーン民主党を樹立した。ヒヤーバーニーと同じアーゼルバーイジャーン民主党という名前を採用することで、彼はイラン国から分離する意向がないこ首相に就任しスとを示唆しつつ、中央政府に対して三つの要求を掲げた。アーゼリー語を公用語として教育・官庁で教え使うこと、アーゼルバーイジャーン地域の開発のため税金の一部を割くこと、憲法に嘔われた州議会を開設すること、である注7。彼らはテヘラン中央の政治家たちが地方の惨状を等閑にしていると非難し、アーゼルバーイジャーンの人々は言語、歴史、文化的に独自の民族意識を持つと宣言した。トゥーデ党の当地支部がこれを支持した。ソ連軍がイラン軍のアーゼルバーイジャーンへの進軍をガズヴィーン市の地点で阻止している状況下で、アーゼルバーイジャーン民主党は1945年10月、11月に武装蜂起を行った。こうして彼らは中核都市タブリーズを1945年12月10日までに抑え、ほかの主要都市も占領すると国民会議を開き、ピーシャヴァリーを首班とするアーゼルバーイジャーン自治政府の樹立を宣言した注8。

  かたやマハーバードでもソ連によって鼓舞されたクルド民族主義者がクルデスターン民主党を創った。彼らもアーゼルバーイジャーンと同様の要求を掲げ、宗教指導者ガージー・モハンマドがオルミーイェ湖西部のクルド地域でクルデスターン共和国の樹立を宣言した( 1945年12月15日) 。武装蜂起はこのほかカスピ海南岸でもおこり、かつてのジャンギャリーが復活した。

  ソ連の真意に対して懸念が強まるなか、発足したばかりの国際連合では英米の支持のもとでイラン大使ホセイン・アラーが凡そ3 万人の軍を残留させるソ連を公式に訴え、内政干渉であるとして、撤兵を要求した(1946年1 月)。これはイランを巡る英ソの確執を、世界的次元に引き出して米国に問題を巡る主導権を握せた。

  トルーマン米大統領はソ連に次のように抗議した「イランにおけるロシアの活動は世界平和を脅かすものであり、ワシントンはこれに無関心ではあり得ない。もしロシアがイランの石油を直接あるいは間接的に支配するならば、世界における原材料の供給バランスが崩れ、西側世界の経済に深刻な打撃を与える」。米国はソ連の影響下にイランが入るのをあらゆる代償を払っても阻止しようとした。しかし、ソ連もまた、自国の安全保障と将来への展望において、イランの戦略的重要性と石油が無視しえないことを認識していた。

  西側陣営とソ連の緊張が高まるなかで、イラン国内では1946年1 月、カワームッサルタネが首相に就任した注9。

  カワームッサルタネは首相に就任すると左派に接近する姿勢をとった。1946年2 月16日、彼は英国の庇護者という評判の陸軍参謀長を解任し、加えてさらに反トゥーデ党で親英派のセイエド・ジヤーを自宅監禁扱いにしてトゥーデ党に歩み寄り、もってソ連の信頼を取り付けた。こうして1946年3 月初旬、モスクワに飛んだ彼はソ連に次の提案を行った。1946年5 月初めまでにソ連が軍を撤兵させるならば、イラン北部の石油利権をソ連に与えること、また、アーゼルバーイジャーン問題はこれを平和裡に解決する用意があること、である。

  ソ連はイランに石油利権の譲渡を求めるとともに(1946年 3 月24日)、撤兵を約束し仮協定に調印した( 1946年4月5日)。その内容の骨子は、前イラン首相が国際連合に訴えたクレームを撤回すること、ソ連軍は3月24日から6週間以内(1946年5月9日まで)にイランから撤兵すること、またソ連はアーゼルバーイジャーン問題がイランの内政問題であることを認めるものの、イランはこの地域の住民の不満を考慮に入れて(トゥーデ党指導の下で)平和的に問題を解決すること。ソ連に認めるべき石油利権注10について両政府は交渉を行い、1946年3月24日から7カ月以内にイラン政府はそれを国民議会に提出して、その批准を受けること、となっていた。

  ところでイランでは石油利権の外国への譲渡は国民議会の批准を要することがモハンマド・モサッデグ博士の主導のもとで法として定まっていた(1944年) 。また、占領軍が撤退するまで国民議会の選挙を実施しないことも第14期国民議会で定められ(1945年10月) 、かつ、この第14期国民議会は1946年3月11日で任期が切れて国民議会は解散していた注11。

  従って、仮協定に従って、ソ連への石油利権譲渡がイラン国民議会で批准されるには新国民議会を招集せねばならず、その新国民議会の選挙を実施するには選挙期日までにソ連軍の撤退が完了している必要があった。ソ連は1946年5月初めに撤兵を完了した。カワームッサルタネ首相もソ連との仮協定に沿ってアーゼルバーイジャーン自治共和国政権との間で妥協を成立させて、自治権を大幅に認めた(1946年 6 月)注12 。一方、イラン中央政府も社会改革政策を発表し、トゥーデ党員を閣僚に任命することによってトゥーデ党及びソ連の信頼をさらに固めた( 1946年8 月) 。

  しかし、1946年10月に入ると事態は新しい展開を見せた。カシュガーイ族のナーセル・カシュガーイが、「共産主義、無神論、無政府論が民主主義とイラン、イスラームを危機に陥れている」として部族民を率いて蜂起し、アーゼルバーイジャーンに与えられたのと同じ自治権をカシュガーイ族にも与えよと要求した。バフティヤーリー族もこれに加担し、蜂起は全国各地の遊牧部族民に拡がった。彼らはトゥーデ党と連立した内閣の解散とトゥーデ党員の政府からの追放を要求した。

  国王(シャー)の軍部もこれを支援した注13。部族蜂起が起こると反乱の規模を誇張して政府に報告し、彼らの要求を飲むように政府に主張した。

  英国も南部イランのバフティヤーリー族の蜂起とその自治運動を支援した。また、油田地帯クーゼスターンを軍事占領する必要が生じた場合に備えてイラク領バスラの英軍基地を増強し、アバダン沖合には英艦船を待機させていた。カワームッサルタネ首相は英国と国王(シャー)に対峙すべくアメリカに支援を求めた。米国大使の助言はトゥーデ党員を閣僚からはずし、アーゼルバーイジャーン問題ならびにソ連との友好関係については、これを見直すようにと言うものであった。

  カワームッサルタネ首相はその社会改革政策を撤回すると共に、トゥーデ党との連立内閣を解散し、かつその弾圧を開始した。さらに彼はソ連軍が残した二つの自治政権に対して軍を派遣した。その口実は国民議会の選挙を適正な状況下で実施するには治安部隊の駐屯が必要であるというものであった。これに対して、ソ連はこの選挙によって成立する国民議会での石油利権の批准を期待していたために動きが採れなかった。若き国王が最高司令官となったイラン軍は1946年12月12日タブリーズに入り、続いてマハーバードを制圧した( 1946年12月15日) 。敗退したピーシャヴァリーとマハーバードのクルドの指導者モッラー・モスタファー・バルザーニーはソ連に逃げた。

  国民議会の選挙は1947年1 月から6 月の長期にわたって行われ、7 月にようやく15期国民議会が成立した。 1947年10 月22日、首相は新しい国民議会にソ連への石油利権譲渡案を提示した。しかし、雄弁なモサッデグ博士に率いられた国民議会は同日これを否決した。

 結局、ソ連はイランの石油利権を得ることが出来なかった。また、すでにアーゼルバーイジャーンとクルデスターンの自治政権は崩壊していた。つまるところ、ソ連は自治政権をつくることも石油利権を入手することもできなかった。第二次大戦中にソ連が抑えた領土で冷戦終結までに回復することができたのはこのアーゼルバーイジャーンだけであった。この間に本格的な冷戦の幕開けが、米国のトルーマン・ドクトリン( 1947年3 月) で始まり、米国はイランと同年10月6 日にはイラン・アメリカ軍事協定を締結していた。

  イラン軍部はアーゼルバーイジャーンとクルデスターンの制圧作戦成功で士気が上がり、さらにアメリカの援助で強化された。これを背景に国王(シャー)は1948年までに、その政治主導権を強めた。国王(シャー)の台頭に反発が強まるなかで1949年2 月4 日、テヘラン大学で報道カメラマンによる国王(シャー)暗殺未遂事件がおこった。下手人はその場で射殺されたが、共産主義と宗教勢力に関連を持つ者の犯行と見られた。これを契機に戒厳令が敷かれ、国王は王権伸長に反対する勢力の弾圧に着手した。トゥーデ党は非合法とされ、アーヤトッラー ・カーシャーニー師はベイルートに追放となった。モサッデグ博士は自宅軟禁となり、カワームッサルタネ元首相に対しても、その陰謀加担が示唆された。さらに国王(シャー)は憲法議会を招集して憲法を改定し、国王(シャー)の権限を強化した。首相の任命権と国民議会の解散権が国王(シャー)に与えられた。また、国民議会の上位機関として上院が設置され、その議員の半数は国王(シャー)が任命することになった。軍隊は言うまでもなく最高司令官である国王(シャー)の指揮の下にあり、官僚とくに選挙管理機関も国王(シャー)の支配下にあった。後にモサッデグ率いる国民戦線は憲法議会が国民を代表しておらず、この憲法改定は違法であると非難することになる。アーゼルバーイジャーン危機は若き新国王が指導権を確立するとともに、米国がイランを反共産主義・西側同盟国に変えていく契機となった。しかし、これが固まるのは次のモサッデグの政変で、イランが英国の植民地主義から脱し、米国の影響力の下に入るのを待たねばならなかった。     

モサッデグの政変

 1949年10月、国王(シャー)は第1 次7 カ年計画の経済援助と軍事援助を米国から取り付けるためにワシントンに旅立とうとしていた。その数日前、モサッデグは政治家、大学生、バーザール商人達を王宮庭園に集合させて自由選挙を要求した注14。宮廷から善処するとの約束を取り付けると、彼らはモサッデグの居宅に引き上げ、そこで「国民戦線」の結成を決め、モサッデグを主席とした。数カ月後に発表されたその綱領では社会正義を確立させることのほか、憲法の実施、政治見解の自由な表明、自由選挙、経済状況の改善などを掲げていた。これにイラン党、イラン国民党、モジャーヘディネ・イスラーム協会、労苦者党( Hezbe Zahmatkeshan) が加わった。 

 イラン党は社会主義を奉じ、その機関紙は立憲君主制の強化、民族独立、地主貴族層の追放を主張した。支持基盤は技師や大学出の官僚などであった。立憲君主制の強化は国王を儀礼的な国家元首にして王室と軍部の絆を切り離し、憲法議会による修正条項を廃止することを意味していた注15。

 労苦者党は真の立憲君主制の樹立を要求し、上流階層の特権廃止、小規模工業の振興、全ての形態の帝国主義(ソ連を含む)から民族を独立させること、そして雇用者・被雇用者の間の緊張の緩和を主張していた注16。

 イラン国民党は若い法律家ダリウーシュ・フルーハルによって設立された。反王権、反共産主義、反資本主義、反セム族、反ウラマーの超民族主義の立場をとり、純粋なイラン民族はソ連共産主義や英国資本主義によって脅かされているのみならず、アラブやトルコの拡張主義によっても脅かされていると説いて、バハレーン、アフガーニスターン、コーカサスなど、失われたイランのかつての領地の回復を主張した注17。

 モジャーヘディネ・イスラーム協会はアーヤトッラー・カーシャーニー師とその一族ならびに富裕な三人のバーザール商人に率いられ、主としてバーザールとくにギルドの長や小売店主などの支持を得た。彼らはイスラーム法の施行、レザー・シャーが導入した西欧的世俗法の撤回、チャドルの着用を主張して、西洋に対するイスラーム教徒の団結を説いた  注18。 

   以上から見て取れるように、国民戦線は二つの異なった勢力から構成されていた。一つは伝統的( イスラーム的)な中間層であるバーザール界( 小商人、ウラマー、ギルドの指導者) 、もう一つは現代的(西欧的)な中間層( 専門家、ホワイトカラー、西洋的世俗教育を受けたインテリなどの知識人層) である。伝統的な中間層はイスラームに基づく生活、イスラーム法に立脚した法を重視し、宗教的な知識人ことウラマーをシーア派社会の真の守護者と見なしていた。また、バーザール界とのつながりが強く、このため国家が市場経済に介入することに反対し、自由経済を要求していた。

 現代的な中間層は宗教は私事の領域の問題であると見なし、民法の基礎としてナポレオン法典が適切であると見ていた。また、定額の給与所得者として彼らはインフレを恐れ、経済的投機を嫌った。両派は食べ物や衣服、言葉づかいまで好みを異にしていた。伝統的中間層はバーザールの茶屋を好み、ネクタイをほとんど締めず、宗教用語であるアラビア語からの借用語を多用した。一方、現代的中間層は西洋的なレストランを好み、西洋風の衣服を着用し、フランス語からの借用語を好んで使った。

 この異なった二つの勢力を国民戦線の下で結びつけていたものは王室・軍部に対する敵愾心と英国の石油会社に対する敵愾心ならびにモサッデグ注19のカリスマ性であった。

  アーゼルバーイジャーン危機の結果、ソ連への石油利権譲渡の拒絶に成功したイランでは、その後、英国に与えられていた1933年の石油利権を見直す動きが生じた注20。この状態を受けて1949年夏、アングロ・イラニアン石油会社( 以降A.I.O.C.と表記) はイラン政府と補足協定に調印した注21。当然これもイランの国民議会の批准を必要とした。この批准の前に第15期国民議会はその任期(1949年7月 〜50年2月) を終え、第16期国民議会( 1950年2月〜51年5月) の選挙が行われた注22。この選挙で国民戦線が獲得した議席は総議席130 の内の8 席に過ぎなかったと言え、その影響力はやがてイランのみならず国際社会を揺るがすことになる。

  この選挙期間中、英国の石油利権に対する反対の声は否応なく盛り上がり、穏当な意見を表明することは裏切り行為と見なされる雰囲気となった。この状況下で国民戦線は半ば地下に潜っていたトゥーデ党と共に英国石油会社の国有化を主張した。1950年6 月、国王はアリー・ラズマーラー将軍注23を首相に任命して石油問題の解決を図らせた。ラズマーラー首相は新しい国民議会に補足協定の批准を求めたが注24、石油特別委員会がこれを撥ねつけた。石油特別委員会はこの協定を再検討するために国民議会が設置していたものであった。1951年2 月、A.I.O.C.が提示した利益折半案も国民議会が拒絶し、モサッデグが委員長を勤める石油特別委員会は逆に A.I.O.C. の国有化を提示した( 1951年2 月19日) 。ラズマーラー首相は非現実的として、これを拒絶したが同年3 月7 日、暗殺されるに至った。暗殺者はフェダーヤーネ・イスラーム注25のメンバーで26歳の大工であった。しかし、国民感情が沸騰したなかで、この暗殺は喝采を持って歓迎され、国民議会は暗殺者の恩赦を決議した。暗殺事件の数日後にA.I.O.C.の国有化法案は国民議会によって可決された。

  高揚した国民感情のなかでラズマーラーに代わる新しい首相は国王による任命でなく、国民議会による選出が要求されて、ホセイン・アラーが首相となった。新首相ホセイン・アラーはモサッデグの助言に従って、国民戦線から閣僚を任命し、カーシャーニー師を流刑先からテヘランに呼び戻した。しかし、この首相も議決されたA.I.O.C.の国有化の実施を拒否した。4 月初め、油田地帯のクーゼスターンで石油労働者がトゥーデ党の指導の下で待遇改善と国有化の実施を要求するストを行った。ストとデモはテヘランやエスファハーンにも飛び火した。戒厳令が敷かれたなかで国民議会はモサッデグを首相に押し、これを受けて国王はモサッデグを首相に任命した(1951 年4 月29日) 。

  首相となったモサッデグは街頭デモで対抗勢力と国民議会に圧力をかけながら、国有化法案の実施委員会に国民戦線の議員を送り込んだ。 遂にモサッデグは、A.I.O.C.の国有化を宣言し(1951 年5 月1 日)、石油施設接収のため、この委員会をクーゼスターンに派遣した( 同年6 月)。モサッデグは完全な所有権と管理権を持つイラン国営石油会社(N.I.O.C.)を設立する一方、接収に対する弁償と英国技術者の雇用継続を提案した。

  一方、英国政府はイランによる国有化を拒否した。国際的な場で政治力を後退させる兆しを見せていた英国は、もし、ここでイランによる国有化を受け入れれば、他の中東産油国がこれに追随し、多大な経済的損害を受けることになると懸念した。この英国の姿勢に対して、モサッデグはA.I.O.C.との交渉を打ち切った。A.I.O.C.は他の主だった6 大石油会社にイラン石油をボイコットするように求め、イランから石油技術者を引き揚げた(同年 9 月) 。英国政府はイランを経済制裁下に置いて、海軍を増強しつつ国際司法裁判所に提訴した。しかし、国際司法裁判所はイランが国有化に対して弁償する姿勢をとったことに理解を示し、裁定を下すことを拒んだ。

  全世界的規模で共産主義と対決しようとしていた米国は、この問題に強い関心を抱いた。当初、米国はモサッデグに同情を示し、英国がモサッデグを共産圏に追いやるのではないかと懸念して調停を申し出た。しかし、英国はこれを拒絶した。一方、ソ連は自国に好意を見せないモサッデグに特に好感情を抱いていたわけではなかったが、その民族主義的立場を支持し、彼を支持するようにトゥーデ党を指導していた。とはいえソ連がイランで石油利権を手に入れる可能性を葬り去ることになるイラン石油産業の国有化については警戒心も抱いていた。

  国民議会は17期に移った( 1952年2 月)  注26。地方選挙区で反対勢力が伸長するのを恐れたモサッデグは、議決定数を満たす79名の議員が埋まると選挙を打ち切った。79名の内30名は国民戦線かその支持者であった。残りの49名は大半が地主で国王派と親英派であった。国民議会の中で国民戦線と反対派が小競り合いを展開した。1952年7 月16日、モサッデグは憲法に則り、軍事大臣を指名した。国王と軍部の絆に楔を打ち込もうとする、この動きに反発して国王はこれを拒否した。これに抗議したモサッデグは首相を辞任して国王が憲法に違反していると民衆に訴えた。大衆は熱狂的にこれに応えた。

  国王派と親英派の議員はカワームッサルタネを首相に選出した。これに対抗して国民戦線はトゥーデ党の協力を得てモサッデグ支持のデモとストを呼びかけた。カーシャーニー師もカワームッサルタネをイスラームと国民独立の敵と非難した。国王は事態を武力で打開しようと試みた。1952年7 月21日、国民戦線とトゥーデ党が呼びかけた全国規模のストとデモに軍が介入し流血の惨事となった。しかし、この間に軍部も分裂の兆しを見せだした。このため国王は武力による事態打開を諦めてモサッデグに組閣を命じた。

  国王に対して勝利を収め、再び首相に返り咲いたモサッデグは自ら軍事大臣を兼任し、レザー・シャーの地所を接収して国有地とし、王室費を削減して厚生省の予算にまわした。また、国王が外国の外交官と直接接触することを禁じ、国王の双子の姉妹アシュラフを国外に追放した。さらに、彼は憲法上、軍部は国王の管轄ではなく行政府の管轄下にあるとして、1941年の即位以来、国王が営々と培ってきた権限を全て剥奪した( 1953年5 月) 。

  モサッデグは軍部を自らの管轄下に入れるのみならず、その軍事力も削いだ。専守防衛用の兵器のみを購入すると表明した彼は軍事費を15%削減し、軍からジャーンダールメリーに15000 人を移管した。さらに米国軍事使節団を帰国させ、136 名の将校を追放して戒厳令を敷いた。

  また、彼は6 カ月間の緊急権限を国民議会から取り付けた。財政、選挙、司法教育面の改革のために必要と彼が判断すれば、いかなる法律も発布できるというものであった( この緊急権限は後にさらに12カ月延長された)。この権限で彼は農地改革法を発布した。農村評議会を設立し、農民の取得分を15%増加させるというものであった。同じく新税法を起草して低所得消費者の税負担を軽減した。司法・教育・内務の各省には徹底した改革を指示した。上院がこれらの改革に反対すると、国民議会に上院の任期を6 年から2 年に縮める法を作らせて、上院を解散させた。国民議会がこれに抵抗する姿勢を見せると国民戦線の議員が一斉に辞任した。このため議員定数が満たされなくなり、17期国民議会は解散となった。国民議会の解散を合法化するためモサッデグは1953年7 月、トゥーデ党の支持のもとで国民投票を呼びかけ、圧倒的な支持票を得た。

  こうして1953年8 月半ばまで、モサッデグは全てを支配したかに見えた。閣僚と官僚は支持者で固め、王室から軍事、財政、政治的権限を奪い、国王を単なる儀礼的な国家元首に変えた。また貴族地主層の反対勢力を払拭し、議会を解散させ、農地改革令を発布し、選挙民に直接訴えていた。さらに英国石油会社A.I.O.C.を国有化し、ソ連が運営していたカスピ海の漁業企業を接収した。イランは他のアジア諸国のように非同盟路線で共和制への道を進むかに見えた。しかし、先述の国民投票からわずか一週間後に、彼は将校団のクーデターで失脚させられることになる。

  モサッデグの支持基盤であった国民戦線は先に述べたように諸派の寄り合い所帯であり、総じて、伝統的な中間層と現代的な中間層から構成されていた。モサッデグが実権を握り一連の社会改革に着手する段階に至ると、この寄り合い所帯の国民戦線に亀裂が走り、カーシャーニー師に率いられた伝統的(イスラーム的)な中間階層がモサッデグから離反した。カーシャーニー師は、テヘランのバス会社国有化が小企業すべての国有化に繋がることを懸念してこれに反対し、食料価格を抑制するために政府が新規パン焼き店を開こうとすると、政府が自由市場に介入する権利はないと反対した。また、電話会社を国有化しようとするとイスラームは私有財産の接収を禁じているとして反対し、憲法に基づいて婦人参政権を認めようとすると、女性は本来の任務である育児に専念するべきであるとして反対した。 

  現代的(西欧的)な中間階層と伝統的(イスラーム的)な中間階層の軋轢はモサッデグが緊急権限を6 カ月から更に12カ月延長したときに最高潮に達した。カーシャーニー師は緊急権限を独裁的であると非難した。また、イランの真の民主主義にはイスラーム法の施行が必要であると説き、モサッデグ側近の左がかった助言者たちが国を危機に陥れていると主張した。こうして国民戦線からウラマー多数が離脱し、モサッデグはバーザール界の支持を失った。

  さらにモサッデグは石油収入の急減による失業とインフレに足元を揺るがされていた。英国の経済制裁と国際石油会社が行ったイラン石油のボイコットで、イランの石油生産はかつての一割に落ち込み、石油収入は劇的に減少していた。主要な石油会社がイラン石油をボイコットしたなかで、イラン石油を引き取った例外はイタリアと日本の独立系石油会社出光興産だけであった 。

  この間に国王を支持する将校が密かに軍事クーデター計画を進めていた。1952年7 月21日の流血事件の後、モサッデグによって退役させられた司令官たちがテヘランの将校クラブで母国救済委員会を密かに結成した注27。委員会の指導者はザーヘディ将軍であった。彼は国王を支持して公にモサッデグを非難する一方で、カーシャーニー師とは良好な関係を維持していた。

  地下の委員会は英国の諜報機関と接触した。英国はイランと外交関係を断絶したあと、テヘランに作業班を残していた。ラシーディアンという資産家がこの作業班を指導しバーザールのごろつきや無頼漢に資金を流していた。

  一方、米国はアンゼンハワー大統領がそれまでの方針を変えて、英国支持に転じた。それまで米国はイランによる英国石油利権の国有化に反対していなかった。モサッデグも英国が独占するイラン石油に米国が食い込む機会を狙っていると読んでいた。これに対して英国はモサッデグがモスクワと繋がるイラン共産党:トゥーデ党に操られており、いずれイランは共産主義者に牛耳られることになると米国に説得した。事実、石油収入がストップしてイランの経済状況が悪化するにつれ、モサッデグはトゥーデ党に接近していた。これはカーシャーニー師など、国民戦線の右寄りの支持者をモサッデグから離反させたに留まらず、米国のアンゼンハワー政権までをして、イランの共産化阻止のため、モサッデグ政権を倒して、親西側の国王の政権に換える決意をさせることになった。

  米国は中央情報局( C.I.A.) のケルミト・ルーズベルトをテヘランに送り込み、軍事クーデターの資金援助をおこなった。ルーズベルトの援助のもとでザーヘディ将軍とその仲間は主要な人物を抑えた注28。彼らはシャーサヴァン族やバフティヤーリー族、アフシャール族、トルキャマン族といった遊牧民や、国民戦線からの離脱者カーシャーニー師などに武器を配った。また、無神論者トゥーデ党の旗を持って神聖なモスクを冒涜する役まわりを勤めるごろつきを雇った注29。

 1953年 8 月13日、国王は休養をとるためと称してカスピ海沿岸の保養地に出掛けた。三日後の8 月16日、近衛部隊のネッマトアッラー・ナーセリー大佐がモサッデグ首相宅の玄関に立った。手には首相をモサッデグからザーヘディに更迭するという旨の国王勅令を持っていた。しかし、このナーセリー大佐と近衛部隊はモサッデグ派の陸軍将校に包囲された。モサッデグ派の将校はトゥーデ党の軍内部連絡網から内報を受けていたのである。国王はこの状況を受けて翌17日、急遽バグダードに逃れ、そこからイタリアに移った。

  国王の離国という事態に対して、国民戦線は王制を継続するか否かを決定する委員会を設立した。また、街頭ではトゥーデ党を支持する群衆が繰り出し、国王の銅像を引き倒していた。ラシュトやエンゼリーといった町ではトゥーデ党が市庁署を占拠していた。

  翌18日朝、モサッデグは国王離国という新しい事態に対処するために、米国大使と会見した。米国大使は法と秩序が回復されるならば、モサッデグを支援すると約束した。これを受けてモサッデグは街頭からすべてのデモを排除するように軍部に指示を出した。これはモサッデグ打倒のクーデターにに利用されることになった。8 月19日、モサッデグのデモ排除令にトゥーデ党が戸惑っているあいだに、ザーヘディ将軍は35台の戦車を指揮して、モサッデグの居宅を包囲した。9 時間の戦闘ののちにモサッデグは捕らえられた。この間、テヘラン下町のルーティ( 宗教的義侠の徒)がバーザール界隈でデモを指導し、またジャーンダールメリーはヴェラーミーンの国王支持者から凡そ800 人の農夫をテヘランの中心街に送り込んでいた。ドル紙幣を握ったこの群衆が軍隊とともにクーデター当日のテヘランの街頭を牛耳った。

  国王が帰国すると、軍部は国民戦線とトゥーデ党の解体に着手した。国民戦線の幹部は比較的に寛大な扱いを受け、モサッデグは3 年の禁固刑となった。しかし、トゥーデ党は厳しい弾圧の対象となった注30。

  モサッデグの採った政策は外国への利権をいっさい認めず、どこからも支援を得ないことで外国の支配から脱しようとする消極的な均衡政策であると、国王は非難し、国王自らの政策は積極的な民族主義であると位置づけた。こうして国王は西欧、特に米国との同盟関係を維持しながら、絶対的な自分の指導権によってイランの主権と独立を強化し、かつ経済開発を行う姿勢をとった。

  しかし、イラン国民はこのクーデターでイランの政治は外国の陰謀によって操られているという確信を強め、国王は西欧、とくに米国の傀儡であるとする見方を強めた。冷戦の下で凍結を余儀なくされた、イランの民族主義はやがてそのエネルギーをイラン・イスラーム革命で噴出させ(1979年)、モサッデグ政権転覆クーデターに果たした米国の役割についてのイラン国民の苦い思い出と米国に対する不信感は、1979年11月の米大使館占拠事件をもたらすことになる。  このイラン・イスラーム革命に連鎖して

その直後に起こったソ連軍のアフガニスタン進駐は、やがてソ連の体力を消耗させて、その崩壊を早めさせ、冷戦自体の終結をもたらすことになる。

 註

(本稿は、本来別の目的で1995年に執筆したものであるが、予定が変更されたため、イラン現代通史の基盤づくりを念頭に修正したものである。底本としてはPeter Avery, Gavin Hambly and Charles Melville,The Cambridge History of Iran, Vol.7 , Cambridge:Cambridge University Press,1991,と E. Abrahamian,Iran Between Two Revolutions, Princeton & New Jersey: Princeton University Press, 1982,を採用した。従って、特に断りがない限り、本文ならびに出処を記していない注はこれらの底本による)。

1     国民議会、親国王、占領軍の三者間の権力闘争の構図は1953年まで続くことになる。この時期、飢饉、疫病、インフレ、治安の悪化問題が生じた。政府は輸出ならび役務の増大を狙って平価の切り下げを行った。しかし、これによる外貨収入の増大はもたらされず、一方、従来の輸入は減少することなく続いた。これは経済状況を悪化させてインフレを引き起こし、貧困階層を直撃した。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,pp.28&30

2     議員は4つの派閥に分かれた。一つはMeehan Parastanで、Hashem Madaniが率いていた。レザー・シャーが退位するまでは彼の支持者であったが、親英的でSeyyed Zia の英国からの帰国を要求していた。もう一つはItte'had-e Melliで議会内最大の派閥として貴族階層を代表し、レザー・シャーの支配下で最大の利益を得ていた。指導者はアラクのMorteza Qoli Khan Bayatであった。彼らは君臨すれど統治せずの立憲君主制を支持し、英ソの牽制役として米国に期待を寄せ、親米姿勢をとった。この派は立憲運動時に活動したウラマーの息子のSayyid Ahmad Behbahaniの援助でバーザール商人の支持を得ていた。第三はアーゼルバーイジャーニー派でソ連に対する懸念は他の派閥ほど強くなく、その指導者はMohammad Vali Farmafarma、ファトフ・アリー・シャー(Fath'Ali Shah)の直系のAmirNusrat Iskandari であった。第四の派閥は正義党(Adalat)で作家Ali Dashtiに率いられていた。彼はレザー・シャー支持であったが、連合軍の進駐後は宮廷に対して批判者となった。この派閥の首相候補者は西欧で教育を受けた文官Ali Soheilyであった。この派も親米姿勢を採った。ibid.,pp 29-30

3     トゥーデ党は戦時下に行われた議会選挙で、ソ連の占領地区で復活し、議会に議員を送り込んだ。ibid.,p.31.その時期は1941年10月であった。New Times (Moscow),Sep.1995,p.45

4      米国務省の中東担当者はイランにおけるソ連の画策に対抗すべく、イランとの貿易交渉を再開すべきであると説き、1943年、イラン政府の要請に応えた形で米国政府がミルスポーを団長とする経済使節団を派遣した。また、米国の中東特使はルーズベルト大統領に、終戦後も独立国として存続しえるようにイランの民主的政府の樹立を支援し援助すべきであると助言した。Peter Avery, Gavin Hambly and Charles Melville,The Cambridge History of Iran, Vol.7 , Cambridge:Cambridge University Press,1991,p.437.

5     Standard Vacuum 社とSinclair社,ibid.p 437. 但し、Ervand  Abrahamian, Iran Between Two Revolutions, New Jersey Princeton Univ.Press, 1984,pp.210ではStandard Vacuum 社とShell社とある。

6     ジャアファル・ピーシャヴァリーはロシア革命( 1917年) の直後にカスピ海南岸のギーラーン州に創られたギーラーン・ソヴィエト共和国( 1920年から21年) に関与した。また、ロシア革命後バークーの油田で働くイラン人労働者が公正(Adalet)と言う名の結社をつくり、1920年にイラン共産主義者政党となったが、その指導者の一人であったとされる。New Times(Moscow0,Sep.1995)

7        Ervand  Abrahamian, Iran Between Two Revolutions・・・, pp.217-8

8  自治政府宣言の後、ピーシャヴァリーは非アーゼルバーイジャーニー所有の農地の再分配を行い、大手の銀行を接収し、労働者福祉施設や道路の建設に着手した。

9     彼はガージャール王家の出身で、革命前にロシアで教育を受けた経歴を持ち、また、第二次大戦中にはトゥーデ党( イラン 共産党)とも友好関係を培っていた。

10    50年の期限でイラン・ソ連石油会社を創り、利益を折半すると言うもの。Ervand  Abrahamian, Iran Between Two Revolutions・・・,p.228.

11 Baqer ‘A~qeli,         Ruzshoma~r-e Ta~ri~kh Vol,1,Tehran , Goftar Publishing Corp. 1995,  p.387

12    その内容は、自治政権をアーゼルバーイジャーン州評議会とし、その国民議会を州議会として認めること、蜂起を行った志願兵は地方の治安部隊として承認すること、将来の知事を州議会が選出したリストから任命すること、州評議会に地方行政府の長を任命する権限を付与すること、アーゼルバーイジャーンで徴収された税金の75%を当地方に充てること、アーゼリー語を小学校教育で使うこと、国有地再配分を公式に認めることなどであった。Ervand  Abrahamian, Iran Between Two Revolutions・・・, p.230

13    アーゼルバーイジャーンの志願兵を治安部隊に加えることを軍はすでに拒否していた。

14    彼らはその場でモサッデグを首班とする20人の委員を選んだ。この20人の委員はやがてモサッデグの緩やかな組織体である国民戦線の中核となる。

15    民族独立は対外的に厳格な中立姿勢を維持して帝国主義に抵抗し、英国の石油とソ連のカスピ海における漁業操業権を接収し、外国即ちソ連の共産主義に無批判的に追随するトゥーデ党にイデオロギー的闘争を挑むこと、ならびにアメリカから派遣された軍事使節団を帰国させることを意味していた。貴族層の追放とは農地改革など平和的な手段で封建的一族の権力を一掃することを意味していた。社会主義的社会とは女性を含む全ての市民の間の完全は平等と主要な生産手段の公有化を意味していたが、無神論的国際共産主義とは異なり、宗教と民族の権利を認めていた。

16    その支持基盤はテヘラン大学及びケルマーン市、またケルマーン出身の主として食料雑貨業を営むテヘランのバーザール商人たちであった。またテヘラン下町のルーティと呼ばれる宗教的義侠の輩の支持も取り付けていた。西欧の帝国主義もソ連のそれをも拒絶して、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカ及びヨーロッパの社会民主主義運動との連携を説き、マルクスの考えを部分的に受け入れたが、宗教の物質的解釈は拒否していた。

17    また、イランの後進性は反動的な宗教界や搾取地主層、外国勢力やユダヤやバハーイといった少数教徒の為であると説いた。

18このカーシャーニー師と密接な関係を持っていたが、国民戦線の正式のメンバーに加わらなかった小規模のテロ組織があった。セイエド・ナッヴァーブ・サファヴィと称したテヘランの22歳の神学徒によって1946年に設立されたフェダーヤーネ・イスラームである。

   カーシャーニー師のモジャーヘディネ・イスラーム協会は全国の伝統的な中間階層の上部から支持を得ていた。   これに対してフェダーヤーネ・イスラームはテヘランの下層バーザール商人に雇用された若者がそのメンバーとなっていた。また、カーシャーニー師は政治的に現実主義者であったが、ナッヴァーブ・サファヴィはイスラーム教条主義者( 原理主義者)でアルコール、煙草、阿片、映画、ギャンブルの禁止、犯罪人の手の切断、矯正不   能な犯罪者の処刑、全ての外国の衣服の禁止、賄賂の処罰、宗教的立場を濫用するウラマーの処罰、学校教育から音楽など非イスラーム的な科目を排除すること、女性が家庭内での伝統的な役割に戻るようチャドルを着用させるなどを要求した。設立者ナッヴァーブ・サファヴィは1956年1 月処刑された。

19    モサッデグ( Muhammad Musaddiq 1881ー1967) は18世紀半ば以降、中央政府の財務専門家を勤めていた家系の出身であった。また、母はガージャール王家の後裔であった( ファトフ・アリー・シャーの曾孫)。1882年6月16日に生まれた彼は、16歳の時ホラーサーンで財務職についたが辞任して1909年、フランスに留学し、1914年スイスでイラン人として初めての法学博士を取得したあと帰国した。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary ・・・,p.24。法務相、財務相、外務相を歴任したが、レザー・シャーの戴冠に反対したため、公職から追放されて所有地アフマダバード村に自宅監禁となった。しかし、1941年8 月、レザー・シャーが退位すると、彼は専制支配に対して立ち向かう高潔な政治的英雄として民衆に迎えられ、1944年国民議会の議員となった。すでに彼は60歳代になっていた。

20    これは英国・ソ連の間で均衡をとろうとする立場からのものであった。

21    この補完協定はGass-Golshayan協定と呼ばれ、Mohammad Sa'id首相(1948-50年)のもとで1949年7月17日に締結された。利権料を年間22セント/バーレルから33セント/バーレルに増やすことが謳われていた。しかし、国民議会はこれを拒否し、イラン人雇用の拡大、イラン政府の会計監査権、5〜10年毎の見直しを要求した。議会が反発した背景には協定締結まで議会が蚊帳の外に置かれ、しかも、15期国民議会の会期期限1949年7月28日まで後5日までしかない時期に提出されたこと。また、国王が改憲で議会解散権を手にすることになったことがあった。Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary・・・,pp.34-35。

22    国民戦線は8 名の議員を送り込んだ。残りの議員の大半は富裕な地主・商人・上級官僚であった。

23    前参謀総長

24    ラズマーラー首相はイランの財政は石油に依存しているという現実を喚起し、世界を相手に殉教者精神で立ち向かうことの非現実性を説いた。

25    注18参照。

26    これに先立つ10 月、モサッデグはニューヨークに飛び、国連安保理にイランの立場を訴えて世界銀行からの財政援助を求めたが、失敗した。彼は英国の内政干渉を非難して英国の領事館すべてを閉鎖した。

27    彼らは国王と軍部の為に、過激主義と闘って母国を社会的崩壊から救うことが将校の愛国的な務めであるとした。

28 ソラヤ王妃の従兄弟でケルマーンシャーの機甲師団司令官ティムール・バフティヤール、ジャーンダールメリー長官、空軍司令官、テヘランの戦車隊司令官ゴラームレザー・オヴェイッシーなど。

29    彼らはモサッデグを支持する将軍を暗殺し、その死体をテヘランで野ざらしにして親モサッデグの将校に脅しをかけたとされる。

30    トゥーデ党の地下組織は次の4 年間にわたって摘発され続け、40人が処刑され、14人が拷問で殺され、200 人が終身刑となり、3000人が逮捕された。

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