イランのハータミー大統領の来日講演(2000年11月2日、於 東京工業大学)
      (資料提供と掲載許可は在日イラン大使館の好意によりました)。

の対話 ---日本文化との対話---    戻る

  学長および御臨席の皆様、
       日本の学識者の方々お集まりの中、本日この秋の好日に、講
       演の機会を得ましたことに、心躍る思いです。とりわけ秋が、
       日本の詩歌や絵画の重要な主題の一つとして取り上げられて
       きたことを考え合わせますと格別の思いがします。禅や日本の
       思想からわれわれが学ぶことは、秋風のささやき、木々の落葉
       や、青々とし活力に満ちた自然の営みが終わりを告げ、目が短
       くなり肌寒い夕暮れに至るといった光景が、いかにして内的な
       思索や深慮、内面世界の旅路の契機になるかということです。
       われわれイラン人が、あなた方日本人に対して語りかけるこ
       とは、ある意味では容易ですが、他方困難なことでもあります。
       もしもわれわれが自らの文化の存在の根源について思考する
       ことを放棄すれば、この場の対話はきわめて順調となるでしょ
       う。しかし他方では、そのようにしてムスリムであるわれわれ
       イラン人と、あなた方日本人が、思想や言語、文化の外面や表
       面にとどまるならば、われわれとあなた方の真の対話は成り立
       たなくなります。まさにこのような容易でもあり、困難きわま
       る状況は、一つのパラドックスであるといえましょう。このよ
       うに矛盾した状況は、一方ではイランと日本の間の、また他方
       では東洋と西洋の間にある文化的な本質や、さらには思想的、
       人間的な諸関係に由来するものなのです。
       ですからここで私は、文化的な遺産に依拠することによって、
       対話の断絶の原因となりうる諸要因を克服するような対話が、
       いかにして可能であるかについて示すよう努めたいと思いま
       す。そのためにいくつかの例を挙げて、イスラームのイルファ
       ーン(神智学)の伝統と、仏教や禅、神道の教えに依拠する日本
       の思想との間に横たわる思想的、内観的な諸信条を比較してい
       きます。
       ただしこの議論を始める前に、本日われわれが行なうこの対
       話のような、あらゆる対話の背後に隠された「危険」について
       強調しておく必要があるでしょう。この「危険」は、言語その
       ものの中に潜んでいたり、言葉を交わすことによってもたらさ
       れるもので、文化の交差する隘路には、われわれすべてを陥れ
       る、そのような危険が待ち構えているのです。しかしあなた方
       の内観的な文化の示唆することに解決を求めることで、この危
       険を乗り越えることが可能となりましょう。そしてわれわれイ
       ラン人の偉大なイルファーン思想家たちによる言葉の中にも、
       同様の可能性が見出されます。
       ここでは日本人が「問答」と呼んでいる対話の特殊な技法に
       着目してみましょう。西欧の言語学者や哲学者たちによる最近
       の研究をみれば、言葉の深遠で正確な意味による対話は不可能
       であるとされており、問答や、われわれのイルファーン思想家
       が、「明示的な」言葉に対して、「隠楡的」な言葉と称している
       ものに着目することが、いかに重要であるかがよくわかります。
       西欧の研究者の中には、まったく異なる言葉によって完全に隔
       てられた二つの文化の間の対話を不可能であるとみなすばか
       りでなく、同じ言葉を用いながらも人々の間の意志の疎通を困
       難、ないしはほぼ不可能であるとみなす人がいます。その説に
       よれば、人間は皆それぞれ、互換、再生ともに不可能なので、
       各人の言葉もまた唯一、比類なきもので、再生不可能である、
       したがって人間は、個人の心的、精神的な経験を伝達すること
       はできないということになります。また別の学者たちによれ
       ば、あらゆる言語は、実際にそれを用いる人が、世界や真理、
       人間との関わりによって築くところの唯一、特殊な関係そのも
       のであります。つまり現実世界は、すべての言語に固有なかた
       ちで、範疇化されたり、分類されるというわけです。
       言葉の機能は、一見して明らかに思われるような、事物を明
       示し、名称をあたえることにとどまるのではありません。言葉
       は、単に事物に名を付すのではなく、それらを「個別的な」方
       法によって名付けています。すなわち名付けという行為は、真
       理や世界に根差す文化の固有な経験に依拠しているのです。こ
       のように言語の範疇化、分類のあり方は、それぞれの言語にお
       いて独自なもので、互いに異なるため、言語は指示・明示する
       こともあれば、それと同時に、隠蔽することもあるわけです。
       人々は自らの言葉によって囚われの身となっています。この言
       葉の牢獄から逃れる術はありません。それは自分自身を脱する
       に等しく、それは不可能だからです。
       この見解に異を唱えるものとしては、人間には統一された意
       識や精神があり、このような人間の本質的な統一性に基づいて
       対話が可能であるという見解があります。中でもとりわけそれ
       は、コミュニケーション・テクノロジーの進展にともなって、
       対話が可能になるばかりではなく、対話が明示的で一般的なも
       のとなると仮定しています。
       しかしここでは、これら二つの相対立する主張の狭間にあっ
       て、われわれやあなた方の文化の存在の深層から発せられる、
       第三の声に耳を傾けてみましょう。禅を通じでわれわれが学ぶ
       ことは、人間は多弁な動物であるということです。アリストテ
       レスの論理学や哲学は、人間を「話す合理的な動物」と称して
       定義付けたことにより、形而上学や西洋哲学の原型をつくるこ
       とに貢献しましたが、禅はわれわれに対して沈黙の卓越性や優
       位性を説いています。そこでは「聞く」ことによってのみ、語
       りかけのできる沈黙があるのです。イルフアーンと禅は、われ
       われに対して、いまだ言葉によって分節化されていない一つの
       現実を、いかにして経験できるかについて説いています。もし
       そのような意識の状態がわれわれに生じれば、その時にはわれ
       われの言葉は、もはや牢獄ではなくなるでしょう。音楽につい
       ても同様に、音階や演奏の合間に無音の間合がなければ、それ
       は音楽ではなく、単なる騒音、雑然とした音の集積に他なりま
       せん。中国や日本の思想においてみられる、真空妙有の世界認
       識は、イスラーム哲学の言葉で語れば、世界の被造物は鏡の中
       に映し出された形姿のようなものととらえられます。それらは
       不変でもなければ、自主独立しているわけでもありません。し
       かし鏡に映し出されたものの中で、唯一、魔法のような方法で
       鏡の外へ踏み出すことのできるのが人間であり、しかもそれは、
       世界の真理を鏡の中に映し出されたもののように認識できる
       イルファーン的人間なのです。
       このように鏡の枠から逃れようとするイルファーン的人間と、
       世界を空(くう)で認識する禅の修行者は、言葉を同じくする
       者同士であり、彼らは真実の対話が交わされることを可能にし
       ているのです。
       ただいま私が話しました状態は、大乗仏教の教えでは「空(く
       う)」といわれ、われわれのイルファーンの伝統では、「ファナ
       ー(消滅)」といわれます。この道筋を辿っていくと、本源的な
       あらゆる対話の基盤へと向かい、「永遠の言葉」へと達します。
       永遠の言葉とは、そのような沈黙や、沈黙の経験なのです。そ
       して沈黙の木に咲く数千の言葉の花のごとく、そこには非存在
       から生起する存在や、静寂が奏でる音楽があるのです。
       現在の世界は、西欧の思想とテクノロジーに全面的に制圧さ
       れたような状況ですが、上述したさまざまな異文化間の対話に
       関する理論は、世界が直面しているこのような危機的な状況を
       脱却しうる方策をわれわれに提示しているのです。
       すでに実感しているような、われわれの自然環境を脅かす危
       機的状況やそれに類する危険を回避するするためには、西欧の
       過去の文化や、インドや、イラン、日本、中国、他の諸地域の
       文化的遺産といった、さまざまな文化の深層から響く声に耳を
       傾ける他に道はありません。
       あなた方日本人は、諸々の文化・文明の対話に関して古くか
       ら貴重な経験を積んでいます。日本は8世紀以降、中国の文
       化・文明から取り入れたものを、自らの好みや資質に合わせて
       育んだのですが、それは文化の対話の顕著な例であります。ま
       た日本の別の経験をあげますと、それは神仏混淆であり、その
       一例は両部神道の名で知られています。
       イランの文化的土壌にも、日本の経験と似たような、文化的
       諸要素の混合がみられます。たとえばわれわれの古代の文化的
       根源は東洋にあり、哲学的な思考の根源はギリシャやイスラー
       ムにあるといえます。また西欧世界も自らの宗教の精神性をア
       ジアの地に負っており、ユダヤ教、キリスト教、イスラームと
       いった世界三大宗教はすべて、アジアの地に依拠しているので
       す。
       ムスリムは、数世紀にも及ぶ長い間、ギリシャ哲学を翻訳し、
       それを自らの思想・信条の根源的要素に照らして解釈してきま
       した。そして西欧の人々は、このようなムスリムの学業を介し
       てギリシャ哲学に通じるようになったのです。キリスト教神学
       へのギリシヤ哲学の影響や、西欧哲学・神学とイスラーム哲
       学・神学の相互交流は、哲学的、思想的諸要素を広大な範囲で
       交差させ、それはムスリムの思想家の間には一般的な方法で、
       そしてイランの思想家の間では特殊な方法で展開した一方、西
       欧の思想家の間にも展開したのです。イランは単に、地理上の
       観点においてのみ極東とヨーロッパの間に位置しているわけ
       ではありません。上述した点に鑑みますと、イランの文化は、
       東洋の神智的体験と西洋の哲学的概念を、忠実かつ正確に、翻
       訳し伝える担い手となりえるのです。
       この短時間では、イスラームのイルファーンと、仏教や神道
       に示されている東洋の内観的思想との間にみられる共通な経
       験について詳細に説明することは、とても不可能です。ですか
       らここでは、両者に共通な諸々の経験や概念のうちのいくつか
       を列挙するにとどめざるをえません。
       r武士道」と呼ばれる、武士の心構えは、ムスリムの間にあ
       る勇敢、寛容の教えを彷彿とさせます。また「悟り」が、禅の
       目的であるのと同様に、自己覚醒はイスラームのイルファーン
       の修行におけるの第一歩なのです。
       さらに日本の俳句は、常識的な意識の型を打ち破る様相にお
       いて、「照明」と呼ばれますが、これとまさに同様の表現がイス
       ラームのイルファーンにもあり、それは「光の顕現」といわれて
       います。
       日本の思想を表現する言葉は、その詩歌において顕著です。
       日本の詩歌は自然や感得したものを隠楡的に説明したり、また
       人間の内面的な状態に解釈を加えたりします。御存知の通り、
       イランやイスラームの精神性や叡智の多くが、詩の形態によっ
       て表現されてきました。
       イルファーンの詩の主題の一つは、神と世界の関係ですが、
       禅では「多にして一、一にして多」と表現されます。イルファ
       ーン思想家にとってこれは、理解可能な言葉なのですが、自ら
       の神智的思想との深い絆を断ち切ってしまった西欧の思想家
       たちの中には、この言葉を「多神教」をあらわすものと理解す
       る人もいます。この解釈は全くもって誤りです。
       イスラームのイルファーンと東洋的な精神性の比較を行ない
       ましたが、これは文化の対話の裾野が、以上検討したことがら
       に限られることを意味するものではありません。イランや日本、
       西欧の思想家をはじめとする、全世界の思想家たちはすべて、
       人間の生活を今なお脅威にさらしている、さまざまな困難を解
       決する方法の模索に努めなければなりません。そのような解決
       は、対話の中に、そして対話を通じてのみ、実現されうるので
       す。しかしこのような対話を始める以前に、西欧の知性と科学
       を無批判なまま受け入れ、自らがそれに完全に屈することは、
       前もって自己破滅を宣言しているようなものなのです。
       われわれの世界では、社会的、個人的なすべてのことがらに
       関してテクノロジーの恩恵にあずからないわけにはいきませ
       ん。しかしテクノロジーの無慈悲な攻勢や容赦ない破壊から人
       間と自然を救出するような、新たな方向性を明確にすることは、
       諸文化や思想の真正な泉に飛び込むことによってのみ可能な
       のです。そこでは、テクノロジーやそれがもたらした新たな科
       学や思想が激しい攻勢をかけ、拡大を続ける中でも、自らのア
       イデンティティーを喪失することはないのです。文明間の対話、
       文化の対話を提唱することは、まさに熟慮と直観への呼びかけ
       に他なりません。
       日本の思想家であり、学識者である皆さんは、誰よりもまず、
       春の芽吹き、銀色に輝く水のほとばしり、桜桃の木々のつぼみ
       の微笑みを、世界各地で、またとりわけ日本で失うことを危惧

       するべきでしょう。なぜならば自然と自然美が、他のどこにも
       ましてあなた方の思想や言葉にあらわれているからです。山や
       雲・風、雨、花にこれほどまでに心を寄せ、愛情を注いでいる
       のは、日本文化や日本語の他には類を見ません。あなた方は自
       然を詠む偉大な詩人なのですから、自然の保護者でもあらねば
       なりません。それは思考や対話によって実現可能となりましょ
       う。日本はイラン同様、戦争や抑圧に、平和と正義が取って代
       わるような新たな地平を切り開くために、世界的な対話に参画
       する必要があるでしょう。そしてあなた方の過去の辛酸や、広
       島や長崎の悲劇で傷つけられた心は、このように将来への甘美
       な希望をもつことによってのみ癒されることでしょう。

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