戻る

パフラヴィ朝の成立 ー現代イラン通史の試みーその1

                       (大分県立芸術文化短期大学研究紀要第36巻(平成10年)所収)

                        富田 健次

 1. パフラヴィ王朝成立の国際関係

  第一次大戦の間( 1914年7 月28日〜1918年11月) 、イランは中立であったにもかかわらず、その領土はトルコ・ロシア・英国各軍の戦場となり、イランは行政的にも財政的にも混乱状態に陥った。

  この第一次大戦中、英国のライバル・ロシアで革命が起こり( 1917年のロシア革命)、帝政が崩壊して内戦とボルシェビキ( ロシア共産党) の権力掌握がそれに続いた。英国はこれを機にイランを単独支配する口実を得ようとした。英国のインド総督カーゾン卿はアフガーニスターン、トルキスターン、トランスカスピ海とともに、イランを世界支配というチュス・ゲームの駒であると位置づけ、イランを英国の保護の下に置くことを図ったのである。こうして英国のイランに於ける影響力はイランで親英派のウスークッドゥレが率いる内閣が成立したことで最高潮に達した(1918年)。

  翌1919年、英国はイランと「英国・ペルシア協定」を締結して、イランを事実上の保護国にしようとした。この協定の内容は英国人顧問をイラン政府に派遣しようとするもので、具体的には、軍隊の近代化支援のために英国人将校を派遣すること、行政とくに財政の全面的改革のために英国人顧問を派遣すること、関税率表を改革すること、近代的通信制度をつくること、ならびにこれらの経費の一部を英国がイランに貸し付けることなどであった。英国はこの協定がイラン国民議会によって批准される前から、英国人財政顧問や軍事将校を派遣し、テヘランーバグダード間の鉄道敷設の調査に着手した。

  しかし1919年8 月、協定の内容が公表されるとイラン国内で反対の声が沸き起こり、親英派の内閣に反発する地方政権が各地に割拠する状況となった。1920年4 月までにヒヤーバーニー( Shaikh Muhanmmad Khiyabani) と彼の民主党( デモクラーツ)がタブリーズとアーゼルバーイジャーンの大半を支配下に置き、アーゼルバーイジャーンをアーザデスターンすなわち自由の地と改称していた。また、ギーラーン地方では1917年以来ミールザ・クーチェク・ハーンのジャンギャリー( 森林) 運動が資産家から奪い貧者に分け与える義賊として名を馳せ、中央政府に対して反旗を翻していた。

  一方、新生のロシア共産党政権は反動のロシア白衛軍ならびにこれを北部イランから支援した英国軍の抵抗にあっていた。ロシア共産党政権は1920〜21年に二度にわたってイランのカスピ海沿岸のギーラーン地方を占領し、ジャンギャリー運動のミールザ・クーチュク・ハーンを支援して親モスクワ政権をここに樹立しようとした。しかし、ロシア共産党政権は、イランにおける英国の活動を牽制するにはイランが英国に従属するのを煽るような行為を控えるべきであるとの見解に傾くことになった。レーニンならびに初代駐イラン・ソヴィエト大使(1920年赴任) は「ソヴィエトがペルシアの一部で革命をおこせば、英国が祖国の解放者を支援する立場に立ち、ペルシアを英国の手中に追いやることになる」との見解をとったのである。

  その結果、革命ロシア政権はギーラーン地方のミールザ・クーチェク・ハーンによるソヴィエト・社会主義共和国を見捨て、イランとの間にソヴィエト・イラン協定を締結した(1921年2 月26日)。この協定では第一条でロシア帝政時代に締結された全ての協定の破棄を宣言し、また、その第16条では1919年6 月の領事裁判権の破棄が再確認された。こうしてロシアはこの協定でイランとの間で対等な関係を嘔い、カスピ海の漁業権を除きロシアが帝政時代に得た利権を放棄したのみならず、それまでの対イラン債権を帳消しにし、ロシア帝国銀行とジョルファ鉄道をイランに譲渡した。しかし、同時に当協定の第5 条・ 6条ではイラン領からロシア共産党政権の安全が脅かされるとロシアが判断した場合にはロシアがイランに軍事介入する権利が謳われていた*1。

  一方、英国はロシアの反革命勢力即ちロシア白衛軍に期待を寄せていたが、これを軍事支援することが困難であること、加えて、当域とくにインド、アフガーニスターン、トルコで高まりつつあった反英感情を前にして、ロシア共産党政権に対して有利な立場を維持することが困難であることを悟りつつあった。例えばイランではアングロ・ペルシア石油会社、イラン帝国銀行、インド・ヨーロッパ電信会社に対するイラン民衆の抗議の声が高まりつつあった。

  そこで英国はロシア白衛軍の支援基地としていた北部イランから撤退するとともに、従来からの勢力圏であった南・南西イランで目立たぬ姿勢をとり、南部イランの油田地帯クーゼスターンの庇護者シェイフ・ハズアルに対する支援も控えることになった。結局、英国はイラン全土を英国の保護国とする内容を持った1919年の「英国・ペルシア協定」は非現実的状況になったと考え1921年、「ソヴィエト・イラン協定」の締結と並行する形で、その破棄を宣言した。英国の軍事・財政顧問は解雇され、1916年に設立されたケルマーンに本部を置く南ペルシア・ライフル隊も公式に解体した。

  長く英国とロシアは相互に牽制しあいながら、イランから帝国主義的利権を漁ってきた。イランは両列強の間で分割寸前の状態に至り、さらにはロシア革命の間隙をぬった英国によって、英国の保護国と化す間際までいった。しかし、ロシアが革命で帝国主義から共産主義へと変わり、英国・ロシアの対抗関係が同じ帝国主義同志のそれから共産主義と帝国主義のそれへと変貌してロシアが帝国主義的利権を放棄し、もって他方の英国を牽制したことは、イランに半植民地状態から脱して自らの統一と独立を確保する余地を与えたのである。

  新しい情勢の下で英ロともイランが両勢力のもとで中立を維持し、もって彼らの権益を尊重する事を望み、そのためには強力な指導者の下でイランが安定すること求めていた。イランは第一次大戦後、飢饉が国土に蔓延し、国庫は底を付き、ガージャール朝の権威は完全に失墜していた。この状況の下で、もし、英ソ両勢力に対して中立の立場に立っていずれの権益と安全を損なうことなく、イランを統治する能力と分別があることを示す人物がおれば、その人物がカージャール朝に代わってイラン全土を平定・統一しうることを意味していた。

  前述した様にロシア革命政権は1921年2 月26日、イランとソヴィエト・イラン協定を締結した。この協定の調印の5 日まえに、レザー・ハーンがクーデターで権力を掌握していた。レザー・ハーンはコサック旅団の司令官であった。このコサック旅団は1879年、ナーセロッディーン・シャーが近衛部隊として創設したもので、モハンマド・アリー・シャーが1907年から1909年にかけて民族主義者を弾圧するために使っていた。

 2. レザー・ハーンの台頭

  レザー・ハーンは1879年頃、マーゼンダラーンのサヴァードクーフにあるアラーシュト村でトルコ語を日常語とする家に生まれた。コサック旅団に入ると粗削りの不屈の意思力と非常な野心でもって頭角を著した。前述した1921年のクーデター時、彼は齢42歳の大佐として約3 千人の軍勢を率いてテヘランに進軍した。事前に彼はガズヴィーンで英国人将校と協議し、武器弾薬、兵卒用の給与を得ていたとも言われる。テヘラン郊外に達すると彼は密かにジャーンダールメリー( 地方警備隊) の将校ならびに若いジャーナリスト:セイエド・ジヤー・ウッディーン・タバータバーイと会った。セイエド・ジヤー主宰の新聞は第一次大戦中、英国を支持する論陣をはっていたため、彼は英国軍人の信頼を得ており、かたや、独立精神に満ちた改革主義者としての名声も得ていた。ジャーンダールメリーと英国軍事顧問の支持を得たレザー・ハーンは2 月21日夜、テヘランに入城し、ガージャール朝国王に対して、クーデターは王制を革命から護るためのものであると説いてセイエド・ジヤーを首相に任命するよう要求した。

  ガージャール朝のシャー( 国王) はこの要求を飲み、セイエド・ジヤーを首相に任じ、レザー・ハーンを軍司令官に任命した*2。新政権が発足するや二人は直ちにソヴィエトとの協定を締結し、かたや英国との間の「英国・ペルシア協定」を破棄した。一方、ソヴィエトは「ソヴィエト・イラン協定」を締結するとカスピ海南岸ギーラーンから赤軍を撤退させてミールザ・クーチェク・ハーンのジャンギャリー運動を見捨てた。

  イラン領土から英国の革命干渉を受けたソヴィエトはイランが英国の支配から脱することを求め、一方、イランの保護国化寸前まで行ったものの、地方政権の割拠と共産主義の浸透を懸念した英国は強力な中央政権とそれによるイランの統一を求めた。両勢力の思惑の交差点の上に立ったレザー・ハーンはその後、権力掌握の道を着実に登った。1921年5 月、彼は首相セイエド・ジヤーを追放する一方、自らは軍事大臣となった。次の9 カ月の間にジャーンダールメリー( 地方警備隊) を内務省から軍事省に移管して、軍部に対する権限を固めた。1909年につくられたジャーンダールメリーはスウェーデン将校の指導の下で地方の交易路の治安維持を任務としていた。レザー・ハーンはコサック旅団の自分の同僚をスウェーデン将校や英国人将校に替え、タブリーズとマシュハドのジャーンダールメリーの反乱を鎮圧した*3。

  次の4 年間もレザー・ハーンは彼の軍事的政治的立場固めに努力し、7000人のコサックと1 万2000人のジャーンダールメリーを統合して4 万の新規軍隊を創った。この軍備拡大のため彼は国有地と間接税の国家収入を確保した。この新規軍隊を使って一連の遊牧民平定作戦を行うことになる。1922年には西アーゼルバーイジャーンのクルド、北部アーゼルバーイジャーンのシャーサヴァン族、ファールスのコヘキロイェ族、1923年にはケルマーンシャーのサンジャービー・クルド、1924年には東南部のバルーチ族と南西部のロル族、1925年にはマーゼンダラーンのトルキャマン族、ホラーサーン北部のクルド、ムハンマラ( 後のホラムシャフル ) のシェイフ・ハズアルと彼を支持するアラブ族がこれら平定作戦の対象となった。

  シェイフ・ハズアルは第一次大戦時、英国に協力した経緯があり、英国を頼みの綱としてテヘランの中央政府にたいして納税を怠って自立姿勢をとっていた。ロル族やバフティヤーリー族の族長やイラクの手先と共に彼はテヘランの政府からの分離独立を協議したと伝えられ、テヘラン政府は再三にわたり彼に警告を発していた。レザー・ハーンは1925年11月、シェイフ・ハズアルの町ムハンマラ(後のホッラムシャフル)を鎮圧した。英国は戦艦をペルシア湾に派遣してシェイフ・ハズアルを擁護する姿勢をとったものの、それ以上の行動はおこさず彼をを見捨てた

  テヘラン中央においても彼は活発に動いた。1923年10月25日、彼は首相に就任した。その数日後、ガージャール朝最後のシャーとなるアフマド・シャーはヨーロッパ旅行に出掛けた。

 1923 年、国民議会( 第 5期) はイラン横断鉄道の建設費に所得税と共にお茶と砂糖の税収入を当てる法案とともに義務徴兵制を可決した。この義務徴兵制の成立は画期的意味をもっていた。ガージャール朝時代の軍は数千人規模の常備近衛部隊、地方の半常備の季節民兵、必要時に徴収される遊牧部族民から構成されていた。当初、王子も兵力を持っていたがこれは19世紀半ばには殆ど無くなっていた。このようにカージャール朝の常備軍は貧弱で1906年の立憲革命までの期間、中心的な常備軍は1879年にナーセロッディーン・シャーが設立しロシア人将校が指揮したコサック旅団だけであった。

  さらに、レザー・ハーンは度量衡の統一を行い、前イスラーム的暦を復活させ、国民が苗字を持つことを定めて戸籍制度を導入した*4。レザー・ハーン自身も前イスラーム時代のペルシアの栄光を彷彿とさせるパフラヴィという苗字を採用した。

 1924 年初め、イランを共和制にしようとする運動が興った*5。前年1923年トルコがケマル・アタチュルクのもとで共和制を宣言しており、これに倣おうとするものであった。しかし、トルコが共和制になったあと世俗化が促進されたことにイランの人々ー特にウラマーは困惑していた*6。レザー・ハーンはガージャール王朝の権威を弱体化させるという視点から当初、この共和制運動を歓迎した。しかし、政治的分裂が生じることを懸念した彼はトルコのアタチュルクの例に倣わないことを決意した*1。(1921年のクーデターから1925年の権力の完全掌握までの期間はイラクの革命の開始時期と一致していた。革命に反対したシーア派のウラマー(Sheikh Muhammad KhalisiやSeyyed Muhammad Sadr)はイランに追放され、コムに入った。これにナーイニー(Na’ini)やエスファハーニーなどのウラマーも抗議してイラクからイランに移った。レザー・ハーンはウラマーの支持を必要としており、イラン政府はこれを歓迎した。ナーイニーは専制を多神論としてカージャール朝の正当性を否定し、シーア派国家としてのイランの国内秩序の回復と外国支配阻止の必要から、共和制には反対する一方、レザー・ハーンの国王即位を支持した。一方、レザー・ハーンは5人からなるウラマーの議会監督権を認める憲法第二条の実施を約束した。Masoud Kamali,Revolutionary Iran:Civil Society and State in the Modernization Process, Aldershot:Ashgate,1998,pp.135-138)

   そこでレザー・ハーンは一つの策を講じた。まず、彼は軍部と国民議会に対して辞表を提出した。国外に出ていたカージャール朝国王は当時いつ帰国しても不思議ではない状況にあったし、帰国すればレザー・ハーンを首相から解任する恐れもあり、彼の立場は不安定であった。引退の報に驚いた国民は一斉に彼の復帰を求める声をあげた。表向き渋々彼はこれに応じて復帰した。この間に共和制問題は宙に浮き、レザー・ハーンはクーゼスターンのハズアルを平定してその名声を益々高めた。ガージャール朝国王が帰国するという噂が広まるなかで、1925年10月31日、遂に国民議会はガージャール王朝を廃止する決議を採択し、続いて12月レザー・ハーンを国王とする決議を採択した。パフラヴィ王朝がここに成立した。

 *1 1921年12月15日批准。ソ連崩壊後、イランはこの協定の破棄無効を宣言したが、ロシア側は回答せず。法的にはソ連の崩壊は協定に影響を与えないと見られている。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politics, University Pres of Florida, Gainesville,1996,pp20-21

*2 政権発足にあたり、セイエド・ジヤーとレザー・ハーンは国内の分裂を収拾し国家再生の時代を開くと表明し、社会変革と外国支配からの救済を錦のみ旗に掲げた。

*3  タブリーズではジャーンダールメリーの地方司令官であり、かつバクーにおける共産主義者の東方人民会議に参加した経歴を持つラーフーティ少佐がヒヤーバーニーの残党とともに彼の部隊を糾合して中央政府に反旗を翻していた。レザー・ハーンは軍備の優れたコサック旅団によってこれを掃討しラーフーティ少佐はソヴィエトへの逃亡を余儀なくされた( 後に彼はペルシア・タージク革命詩人としてかの地で名を残すことになった)。

  マシュハドではモハンマド・タギーハーン・ペスヤーンというタブリーズ出身の地方ジャーンダールメリーの司令官がアーゼリー( アーゼルバーイジャーン人) を中心にした民主( デモクラーツ)党とともに革命委員を設立しホラーサーン暫定政府をつくっていた。彼はアスタラーバード( 後のゴルガーン) のクルドとの闘いで戦死し、コサック旅団がその拠点マシュハドを占領した。続いて1921年12月までにレザー・ハーンはソヴィエトの後ろ楯を失ったギーラーンのジャンギャリー運動を鎮圧した。

*4 第4期国会によって戸籍制度が検討され、1922年に最初の国勢調査が行われた。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,pp21ー22

*5 第5期国民議会は1923年3月18日、共和制移行議案を提出し討議を開始した。議会の外でウラマー達は反共和制デモを指揮した。レザー・ハーンはコムに出かけて宗教界の指導者と会い、共和制はイスラームに反するとの結論に達したとの声明を出した。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran;The Institutionalization of Factional Politcis, University Pres of Florida, Gainesville,1996,p-25

*6 1923年7月4日、英国はイラクから親英議会設立に反対の教令をだしたウラマーをイランに追放した。レザー・ハーンは彼らから信仰の守護者として見られ、またそのように振る舞った。ウラマーは30人以上であったが、その代表はHaj.Sayyid Abolhasan Isfahani,Haj.Mirza Hossein Na'ini,Haj.Sheikh Karim Yazdi.。Bahman Bakhtiari;Parliamentary Politcs in Revolutionary Iran-The Institutionalization of Factional Politcs-, University Pres of Florida, Gainesville,1996,p-23